瀬戸内海・直島 アート
<金屏のかくやくとして牡丹哉> 蕪村
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』で暗がりに立てた金屏風の輝きを「巨人が顔色を変へるやうに」と書いている。蕪村の金屏風は庭の牡丹と照らし合うように「かくやくと」輝く。「かくやく」の漢字は「赫奕」。眩しく光り輝くこと。『蕪村全集』から。
(2022・5・14長谷川櫂氏の四季から)
拝借しました。
那須与一 鏑矢の謎
源氏と平家が覇権(はけん)を争った源平合戦。屋島(現・高松市)の戦いで平家方の小舟に掲げられた扇の的を射落した那須与一の活躍は、源氏優位の流れを決定付けたとして名高い。ただ、当の与一は実在性も含め謎が多い。野中哲照・国学院大教授(日本中世文学)は新書『那須与一の謎を解く』(武蔵野書院、5月下旬刊行予定)で、現代まで続く”与一伝説”の真相に迫っている。
屋島沖。平家方の小舟から現れた女房が扇を立てて挑発する。大将・源義経の命令を受けた与一が神仏に祈り矢を解き放つと、見事扇を射抜き,敵味方問わずその腕前に感嘆したー--。
与一は先が二股に分かれた鏑矢(かぶらや)を使い、難題を成功させた。だが当時、北風が激しく吹き、波も高く、的の扇は舟の上で激しく揺れていた。「困難な状況の中、なぜ矢が尖った戦闘用の矢ではなく、操作が難しい鏑矢を選んだのか。これまでの研究では、合理的な説明はなかった。
野中教授の推理
①女房の装束は上半身が白、下半身が赤で巫女の装束と同じ。扇も色柄から祝儀や神事でしかつかわれないもの。平家は先の一ノ谷で敗れ、源氏優勢となったが、この扇の的を射外せば神はまだ平家を見放していない。扇の的にはそんな勝敗を占う「いくさ占い」の意味が込められ、神事にふさわしい鏑矢が使われた。
平家物語は鎌倉・南北朝期に成立した軍記物語で、与一の描写が史実か否かの疑問もある。
①諸本の分析から、与一の章には内容に異質さがあり、他の章とは独立して成立し、平家物語に「後次的に」取り込まれた。那須家に「弓馬の堪能」とされた人物がおり、彼が与一のモデルになったとの見解。
①与一の実在性自体も長く議論されている。「実在性を単に否定するのは簡単。モデルを特定することで、与一の真実に迫れる」 「関東周縁の那須出身の与一の墓がなぜ京都にあるのか。疑問とされてきた点も、与一の物語の成立過程をたどることで分かる」
(2022・5・11 讀賣新聞 文化欄から)
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