石炭産業が隆盛なりし頃のお話ですが、大志を抱いて祖父が就職した病院では、代々の医師が無医村であった沖ノ島へ赴任したと聞き及んでいます。 その期間は短かったようなのですが、祖父母亡き今では、残念ながら話を聞くこともできません。(;´д`)
(沖ノ島=福岡県宗像市 玄界灘の真っ只中に浮かぶ
女人禁制の島)
私が結婚後数十年を経て友人となった方の父上が、偶然にも同病院に勤めていらした方なんです。祖父とは年代は違いますが、この父上も沖ノ島へ赴任した時期があったと伺ったのですよ(・_・D
この友人・山川由岐子さんは2016年3月6日 71歳にてお亡くなりになってしまわれました。
医師でいらした父上さまは吉田案山子(かがす)氏と仰り、「珍しい名前でしょう⁉」とお話なさいました。ご子息さまは東京・広尾にお住まいで、アナウンサー。お嬢さまは奈良在住。と、そのお話が昨日のことのように思い出されます。社宅住まいのときに知り合い、
その後、先祖方の繋がりから急速に親しくなりましたのよ。
ワタクシには逝去なさった友人方を偲び懐かしむという
幸せが残されていて、このことは本当に有難いことですね!
豊臣秀吉(1537~98年)最晩年の城
「京都新城」(京都仙洞御所)
遺構 (石垣・金箔瓦など) 確認。
全国統一の拠点として築いた大坂城、
京都の政庁として機能した聚楽第、
晩年の隠居城として設けた伏見城、
これらの城に比べ、京都新城は絵図などの史料も乏しく、これまで遺構が確認されていなかった。
京都新城は1597年に京都御所の南東に築かれ、1627年の
仙洞御所(現・京都仙洞御所)の造営で姿を消したとみられていた。
昨年11月から発掘調査では、高さ1~1・6㍍、南北8㍍の石垣を初めて確認。安土桃山時代の工法で、自然石を積み上げる「野面積み」が採用されていた。
石垣は本丸を囲む堀跡の一部とみられる。
堀跡から豊臣家の家紋で武家権威の象徴の桐紋の金箔瓦が見つかる。
『本丸の石垣上には金箔瓦を施した「多門櫓」や「塀」を巡らしていた可能性がある。本丸の内側はさらに多くの金箔瓦があったとみられ、聚楽第に匹敵するほどの豪華さだったのでは』
(中井均・滋賀県立大教授(城郭考古学))
京都市埋蔵文化財研究所は新城の範囲を東西約400㍍、南北約800㍍に及ぶと推定。「新城と聚楽第の本丸の規模は近い」と分析する。
聚楽第は秀吉の後継者として関白に就任した甥の秀次に譲り渡されたが、秀次が謀反の疑いを掛けられて自害した1595年に破壊された。
秀吉が新たな後継者として期待した愛息の秀頼のために、聚楽第に匹敵する規模の新城を設けた可能性が想定できる。
ただ、秀吉の死後、秀頼は大坂城に移り、新城は秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の屋敷として使われた。
「秀吉の死後、京都を拠点に朝廷を重視した『公家政権』ではなく、大名屋敷を有する大坂を拠点とした『武家政権』を目指した豊臣家の権力志向の変化が考えられる」
(中井教授)
秀吉晩年から死後の豊臣家の政権構想の再評価に繋がる発見だけに、今後も絵図や文献などを踏まえた総合的な研究が期待される。
(2020・6・17 文化 歴史 から転記)
シャーロット・ブロンテ 長編小説「ジェーン・エア」
1847年刊。
内容は全く覚えてませんのに、読書って最高!ってことだけが 記憶に残ったのですよ。
中学1年の時、どこからか手に入れたこの「ジェーン・エア」を読み「本」の素晴らしさに感動したのでした。 それ以来、シャーロット・ブロンテ。エミリ・ブロンテ。の名前が頭に刻み込まれました。
けれど、学校の勉強も出来ない劣等生の私が本など読んではいけないという間違った概念で、過ごしてしまったのです。「本を買ってちょうだい」とも言えませんでした。祖父母の元で育てられていた終戦後の出来事です。
といっても・・・終戦から8年も経ってますのにね、どこが間違っていたのでしょうね・・・
♡♡♡ ありがとうございました ♡♡♡