高校生孫の一人が男子友人たちと一泊で北志賀へ🏂スノボーリベンジ
「ちゃんと帰宅できました」とラインが入るっ。
この言葉多分前回のことも有り、祖母が使ってたことと合わせて、含みを持たせた「ちゃんと」だったのかな?
(・_・D フムフム
2月連休の折、救護室→病院受診&入院→母親車にて迎えに! というハプニングあり、友人たちの健気でタップリな支援、行動に母親(私の次女)超感動した! という一件があった。
今回は翌朝大雪でタップリ楽しめた~と写真があるも、祖母の転送が未だ整わず、出せなくて残念ですが!
4月から新社会人になる孫娘(上から二番目)も全て万事順調。 産まれた時の話をすると・・・
「私はおじいちゃん、おばあちゃん、パパとママのところに産まれて本当に幸せだなーって思ったよ。これから社会人になって、どんどん恩返ししていかないと」
「おばあちゃんはいつも私たち孫を肯定してくれて優しいね。その優しさを私も持てるようになりたいな」
「医療の発展は止まらないから、生涯学習頑張ります」
「学位記を貰ったときはやっぱり両親の顔が浮かんだ。
ママにも、パパにも感謝でいっぱいだよー」
今春4年に進級する男子孫 車大好き男子
母と息子の楽しい会話
「バイクの後ろにお母さんは乗せてくれないの~?」→
「いやだよ」
「年齢制限あるか~ 30歳以下とか?」→「70歳以上だな」「じゃあ〇のおばあちゃんだけだね~」→「そうだよ~」
私への励ましのメッセージ! 優しいお嫁さんです!
ベランダ整理 粗大ゴミ出し 鉢置きとして使ってた棚他
横浜市粗大ゴミ受付センターへ→コンビニにて収集シール購入(200円2枚)→指定日朝8時までに所定置き場へ
昨日 行いました。出来るだけ自分でできることは自分でしよう! と思ってますのよ♪
運び出せない時には娘か孫に頼むとしましょ!
穂高を愛した男 宮田八郎氏命の映像記録
再放送を観ました!
その生きざま、 女房のように愛した穂高岳、
妻&家族への愛、 に感動し、ぼんやりとしばらく気持ちが抜けられませんでした。
そういえば、長男夫婦の共通のお友達(女性)が日本百名山を踏破した旨の話を聞いたのは何年前のことでしたかしら.
宮城まり子氏が3月21日ご逝去なさいましたね…93歳 私の友人と同じ悪性リンパ腫。
宮城まり子さん 私中学2年の時、北九州の若松にいらっしゃって、お話を聞いたんですよ。
夢を語ってらっしゃったんです。それがねむの木学園設立でした。
また 抽象的な感じでしたが「と~っても熱烈に愛する人が出来、懐に飛び込む」というふうなことを魂を振り絞るようにお話なさったこと。当時は余り理解できなかったのですが、印象に残ったのを思い出します。
作家・吉行淳之介氏と、その後長く(籍を入れないまま)パートナーとして過ごされるのですね。
新聞記事から転記いたします。
肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」園長。
1968年、私財を投じて静岡県に学園を設立。以降、50年以上、福祉に身を投じた。 1974年、「ねむの木の詩(うた)」など学園の記録映画も、彼女の演出や編集の力があってこそ海外からも注目された。 指導した園の生徒の絵は温かく細密で、展覧会は全国で人気を集めた。秋の運動会では、しゃれた衣装に身を包んだ園生が、合唱や踊り、茶道まで披露した。
自身も、「歌いたい」との思いを抱え続け、7年前、東京都内でコンサート。「ガード下の靴みがき」はオーバーオール姿で歌い、「愛の讃歌」では長年のパートナーだった吉行淳之介さんへの思いを込め「淳ちゃ~ん」と叫んだ。
「小さくて子どもみたいにかわいらしい女性。吉行さんが帰らないと寂しくて私に電話してきた。私は慰め役」と
瀬戸内寂聴氏。
編集手帳から
芝居に歌に大活躍していた頃、その陽気で楽天的な素顔を
東京の「下町っ子」と、評した評論家がいた。
宮城さんを娘役に脚本を書いたことのある花登筐(はなとこばこ)は次の<まりちゃん>評を残している。<私は、彼女を見ると大阪の芸人のとうはん(お嬢さんの意)を連想する。外見はハデでも、きびしい家計のやりくりをして、男まさりで、そのくせ情に弱く、夢はみるが涙は見せない…>
そんな<とうはん>はこの文章の2年後、新たな道に踏み出す。肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」の設立である.
「この世にだめな子なんて一人もいない」
「小さな体で身を粉にして子供たちのためだけに働き、本当の『お母さん』のようだった」と大宅映子氏。
(ともに2020・3・24 新聞記事から転記)
♡♡♡ ありがとうございました ♡♡♡