家も子も構はず生きよと妻言ひき
           怒りて言ひき彼の夜の闇に

                  高安国世(たかやす くによ 男性) 
                  1913年~1984年
                  歌人・ドイツ文学者(専門はリルケ)

夫と妻との危機をはらんだ作であり、暗鬱な葛藤を含んでいる。
「家も子も構はず生きよ」という内容は具体的にはわからない
けれど、世俗の常識など棄てられるのなら棄てて生きよ、という
のが妻の怒りをこめた言葉であった。それは学者としての道に
立てよ、という、単純なものではない。人間関係の割り切れなさが
隠された、どこか短編小説になりそうな「彼の夜の闇」の出来事で
あった。 「生きよと妻言ひき怒りて言ひき」には息を入れる隙の
ない迫真力があろう。


かなしみをかなしみとして嚥(の)むごとく
           冬夜ねむればわれあたたかし

                  坪野啓久(つぼのてっきゅう)
                  1906年~1988年
                  歌人 ・ 妻 山田あき 歌人
                 
ある達観の境地をもつ作者の姿勢が見える。かなしみをかなしみ
として嘆くじめじめしたものはここでは省略され、「冬夜ねむれば
われあたたかし」として転生してくるのである。かずかずの困難を
経過した末に得た思いなのであろう。熱時熱殺、冷時冷殺という
禅の至り得た言葉を思い出させる一首ではある。


リラの花 卓(つくゑ)のうへに匂ふさへ
          五月(さつき)はかなし汝(なれ)に会はずして

                   木俣 修(きまた おさむ)
                   1906年~1983年
                   歌人・国文学者

リラの花のもつロマンと「汝に会はずして」という思い入れの
柔軟さが、この一首を何と美しい世界に招き寄せてくれること
だろうか。