自分の感覚を信じる。 | 日々つれづれ

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はづきのアタマの中。


こんにちは、はづきです。


昨日、Facebookに投稿した文。

世の中、ほんといろんな講座とかセミナーとかあって、
情報アンテナが異常に高い私は、そういうのをすぐに見つけて、
自分の知らないことに関する講座を見ては、
「こういう知識知っておいた方がいいのかな」
「行ったほうがいいのかな」
「知らないと良くないかな」
と思い、
なぜか焦燥感にかられたりしていた。

でも、だ、
たとえ知らなくても、
いま幸せに暮らせてるならそれでよいではないか?
そりゃ、知ったらもっとより良く暮らせるかもしれない。
だけど、知らなくても、いや、知らない方が心穏やかに暮らせることもよくある。
特に私みたいな、無意識のうちにあらゆるものをインプットしてしまうような人は、
意識して情報遮断するくらいでないと、疲れてしまう。

脳みそのキャパシティは有限だ。
あれもこれもなんて無理。
やっぱり私は、子どものこと、夫のこと、家族のこと、身近な友人達のこと、
それらとの関係をより良くしていくことに集中したいと思った。





なんでこんなことを思ったのかというと、

ふっと降りてきたんだね。


「自分の感覚を信じなさい」



私は、とにかくアンテナが高い。昔から高い。
それこそ、子どものころから高い。

「情報通」とか言われてたこともある。

知ろうと思って知るわけではなく、
見たもの聞いたものがどんどん頭に入ってしまい、しかも忘れない。
(逆に、意識的に知ろうとすると頭に入らなかったりする)

これって長所でもあるけど、同時に短所だと思う。

なぜなら、自分の感覚が鈍くなるから



わかりやすい例でいえば、子育て。

今はとにかく、子育てに関して膨大な情報があふれていて、
本やらネットやら、あーでもないこーでもないと日々更新されている。

でも本来は、子育ては、
子どもの数だけ方法があって、

子どもだって人間だから、当然ながら個人差があって、
一概に「○か月だからこうなる」とかいうものではないはず。
あくまでそういうのは「参考程度」のもので、
決して振り回されるものではない。

母親と、目の前の子どもと、
日々暮らしながら、一番心地よいやり方を探っていけばよい。

あれがいい、これはダメ、
そんなのは「参考」。
たまたま、それが合っている人が提唱しているだけ。
もちろん、それを取り入れてみて心地よく過ごせるならそれでいいけど、
「そうしなきゃいけない」ということはまったくもってない。


ネットがなかったころは、ここまで惑わされることはなかったんだと思う。

私も、ママ5年目、
息子がだいぶ大きくなって、今までもさんざん惑って悩んで、
ようやく「まいっか」と思えることが増えたけど、
そりゃ、赤ちゃんのときや、未就園児のころは、
悩まない日なんてないくらいだった。


上記の通り、私は情報を蓄積してしまうタチだから、
目の前の息子を見るより、
赤の他人の意見を読んで、いらぬ悩みを抱えていたんだと思う。



答えは、自分が持っている。



子育てに関して言えば、
目の前の子どもがすべてであり、答えも持っていて、
毎日家族で笑っていられるなら、それが自分たちにとっての「正解」なのだ。





生き方についても同じ。

自分が日々、心穏やかに、楽しく笑っていられるなら、それが「正解」。

お金があろうがなかろうが、
働いていようがいまいが、
忙しくしていようがゴロゴロしていようが、

結局のところ、心が満たされていれば、どうだっていい。



上記の、Facebookに投稿した文にもあるけれど、

「知っておいた方がいいかも」
という気持ちで情報を仕入れることは、何の意味もないことに気づいた。

私、たぶん、ものすごい知識持ってる。
これ以上入れたら、頭パンパン。
てか、すでに入りきらずに漏れている(苦笑)


頭パンパンのせいで、それらの知識が邪魔をして、
自分の感覚や直観を感じにくくなってしまった。

とある感覚が湧いてきても、
「この感覚って正しいのかな、私がおかしいんじゃないのかな」
なんて思うようになってしまった。


正しいも間違ってるも、あるわけない。

曲がりなりにも40年生きてきた、そこから生まれる感覚を、
もっと大切にしたいと思う。


子育ても、自分の人生も。