うざいという奴が一番うざいのか
父というものは、うざったいものである。
自分の父も、特に説教が多いタイプではなかったし、小言らしい小言もそう多くは聞かされた記憶がないものの、生きている間は自分の近くにいればいるほど、気詰まりさを感じさせられることが多かった。
一方、この小説、父が最晩年に昔を思い出しながら書いたこの小説では、主人公は、二十歳過ぎの父の分身ということになるが、人に煩わしいとかめんどうくさいと感じさせないと一瞬は思える。
実際、主人公が勤労学生として働いている軍需工場で、男子学生連中憧れの的である美人事務員とあっという間に極秘交際するようになってしまうし、その事務員の「田園調布にある家」に招かれて、その家族から歓待されるからだ。好青年と言っていいだろう。まずは、好青年といっていいだろう。
しかし、その一方で、この主人公は、自分の従兄が妊娠させてしまった年若い女中の身の上を心配して、身の回りの何から何まで、頼まれもしないのに、尽くし通すのだ。
自分が妊娠させてしまった相手ではないのに、自分には、既に述べたように相思相愛の女性がいるのに。既に召集令状が来る予兆はあって、自由な時間は限られているのに、である。
そこに、好青年の顔とは別の顔が現れる。
よく言えば、情の濃い、困っている人を「ほおったらかし」にできない、悪く言えば、過剰に優しくておせっかいで、ピント外れな顔が、だ。
しかも、父は、小説を書いている側として、つまり、一番高いところに立って登場人物をコントロールする位置にいながら、かなりこの主人公と一体化してしまっているのだ。
主人公が女中に自分の善行や献身を疑いもなく猪突猛進やりつくそうとするのは、いいとしても、作者自身が、主人公の危うさとか不可解な性分を批判せずに書いているように思われる。
つまり、この小説を読んだ時には、主人公である父の分身だけでなく、そして、作者である父からも、二重に気詰まりやわずらわしさを感じさせられるのだ。そこは、どう見ても好青年でもなければ、好男子でもない。
と書いて終わらせられれば、なんのことは無い。
ところが、ここにまた一つやっかいな問いが自分の胸に突き付けられるのを感じてしまう。。
つまり、なんだ、かんだ批評しているようだが、こうやって飽きもせず、父親の小説のことをネット上に何回も書き連ねている自分自身こそ、父よりも何倍か、粘着的でうざったらしいオヤジなのではあるまいかという問いが、だ。