第十章「日本と発展する中国」 | ひとときのときのひと

ひとときのときのひと

広告業界で鍛えたから、読み応えのある文が書ける。
外資系で英語を再開し、アラカンでも英検1級1発合格。
警備業界にいたから、この国の安全について語りたい。

そんな人間が、ためになる言葉を発信します。
だいたい毎日。



まずは英語から。

 日本研究の第一人者であるケネス・B・パイル氏。数多くある彼の著書の中でも、「Japan Rising」は、「日本の高揚」といったタイトルが付いているのに邦訳が出版されていません。

 

 なぜ未邦訳となってしまったのか。

 

 その謎を探るため、既に紹介した第一章から第九章に続きここでは、第十章「日本と発展する中国」を翻訳・要約し以下に共有します。

 

 2006年初版の本書も、残すところ、次の第十一章とエピローグとなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

0.三カ国の関係

 最も強烈にアジアの将来像を主張している中国。新興国は、かつての日本やドイツがそうであったように、現状に挑戦状を突き付けるものだが、日米同盟が中国をいかに扱うかが重要だ。

 

 とはいえ、日米中の三極関係は今に始まったことではない。米国は大戦前に、領土保全等を掲げ中国の安定を築こうとし、戦後は共産主義封じ込めのため日米同盟を結んだ。その後、ニクソンの決断により米中日は、ソ連封じ込めという目的を共有する関係となった。

 

 しかし、冷戦終結後、この関係は変化し、互いに他の二国間関係を疑心暗鬼の目で見るようになった。このような環境下でアジアにおける日中の主導権争いが始まっている。

 

1.中国の関与

 中国がアジアにおける安定的な勢力となるよう、その経済発展を日米両国が時には競い合うように支援を行った。それは、いつか中国が国際的な政治経済体制の中におさまることを願ってのものだった。

 

 国交正常化以前は「政経分離」としていた日中関係についても、政治問題が大きく横たわるようになってきた。また、米国も東アジアにおける数か国での基地配備などで、中国に対する封じ込めを行っている。その一方、日中間の歴史に関するて米国人の理解は乏しい。

 

2.冷戦下における日本の対中政策の

 占領終了後、日本は中国との独占的な経済関係構築を望んだ。吉田茂も、1949年に「たとえ中国がどんな政治体制であろうと、日中の経済関係は必要」と認めていた。

 

 それどころか、吉田は、外交官としての経験上、米国の対中政策が間違っていると見ていた。しかし、米国側の要請に基づき、サンフランシスコ平和条約で、日本はその条約の相手国として大陸中国ではなく台湾を選んだ。

 

 その後、日本の保守支配層の中では、対大陸と対台湾とのそれぞれの経済的パイプが形成され、巧妙に使い分けされていた。その結果、大陸と台湾それぞれが日本に対して不信感を募らせたため、「政経分離」がこの矛盾解消のために使われた。日本は1966年までアジア貿易における1/4以上を大陸中国との間で取り扱った。

 

3.ニクソンの対中対話開始

 ニクソンが中国との対話を開始したことは日本に大きなショックをもたらした。当時の米中間では日米同盟が論議の的となったが、「日米同盟はソ連封じ込めだけでなく、日本の単独行動主義の封じている」といの米側の説得が功を奏することとなった。

 

 田中首相により1972年による中華人民共和国との外交樹立や日中友好平和条約が締結されてからも、中国は日米安保条約に理解を示した。

 

 さらに、その後ニクソンは、日本の膨張した貿易黒字解消を目指し、円の切り下げという2番目のショックを日本にもたらした。

 

 このように日本は米国の動きに翻弄されたが、三国間では、安全保障上の妥協が成立し、日米は中国の経済改革に関して、世界銀行への加盟等積極的に支援を行った。1989年の天安門事件まで15年以上にわたり、米国は日中両国との緊密な関係を築いた。

 

4. 日本の援助ベースの対中政策

 日本は、戦後賠償を放棄した中国に対してはODA(政府開発援助)の形で支援を行った。日本側はこのODA施策が最終的には日中関係改善にとどまらず、地域の安定に資するものと考えた。

 

 中国は逆にこれを当然の権利と捉えるようになり、欧米や東南アジアからの不満を背景にして日本はいくつかの軌道修正を行った。

 

5.. 歴史の重荷

 日本の中国に対する経済援助は、中国国民に明かされることはなかった。それは戦争責任の謝罪であり自責であるとされた。日中友好条約締結(1978年)後の約20年間は、日中の経済関係が拡大するとともにいわゆる教科書問題や中曽根首相の靖国参拝など、両国間のナショナリズムの相克も生じた。

 

 1992年には天皇の中国訪問によって日中関係の好転が見込まれたが、実際そうはならなかった。その後も、中国が日本に対して過去についての謝罪を求める時代は続いた。

 

6.. 日中間の政治問題

 中国は、天安門事件後、1996年には台湾海峡危機などを引き起こした。これに対して西側諸国は経済制裁を課したが、日本はその動きには加わらず中国のWTO加盟の促進をした。

 

 そのほかにも日本は経済関係を良好に保つことで中国の自制をはかったが、効果が上がらなかったため、日米防衛協力指針を改定した。

 

 その後、中国の一方的なやり方に異を唱える保守政治家も現れ、また対日感情の良好な台湾に傾斜する政治家も勢いを得るようになってきた。

 

 中国はその後、日本の国連安保理常任理事国入りを阻止しアジア通貨基金の創設にも反対した。日本も尖閣諸島をめぐる中国の動きには「懸念」を表明した。そのうちにODAの効果に対する日本国内での疑念は高まり、「卒業」も取りざたされるようになってきた。

 

7.. 戦略的三角関係

 人口増や貧富の格差などが顕在化している中国にとっては、経済強化が最重要であり、「日本はこれを左右できる立場なのだから、中国政府の立場に異論をとらえるような、米国寄りのスタンスをとることは得策ではない」との意見も日本国内にはある。

 

 すなわち、米国寄りのカードと、中国寄りのカードを上手に戦略的に使い分けるやり方である。

 

 日本と中国は、それぞれの相手国の防衛政策につき警戒をしながら、利益を共有している。が、日本は日米同盟のもと、中国の東アジアにおける動向を注視しつつも、その一方で米国の中国政策に拘束されることは望まないだろう。