父の小説のレビューを書く(13)続・恋愛か変愛か | ひとときのときのひと

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まずは英語から。

 

続・恋愛か変愛か

 時は、戦時下。ある男好きのする若い「女中」が住み込み先の「お坊ちゃん」の子供を身ごもってしまう。

 

 「お坊ちゃん」の従兄に当たる主人公(父の分身)は、軍需工場に駆り出されている高校生だが、かねてから思慕をささげていたところから、この「女中」に必要以上にかかわり始める。

 

 それは恋愛ではなく、変な愛の連続としか見えない。そして、とんでもない運命を引き受けることになる。

 

 父は、この小説を一人称ではなく三人称で書いた。つまり、「ボク」や「私」の視点ではなく。いわゆる「神の視点」から物語を展開する形にした。

 

 いまふうに言い換えれば、空中に高く舞い上がっているドローンのカメラアイというところだろうか。

 

 自分の経験が下地になってはいるものの、単なる私小説にはしたくなかった。だから、「神の視点」にこだわった。

 

 より具体的に言えば、この「女中」が不当な扱いを受けていたことに対する「義憤」を訴えようとする意図から客観性を担保できる「ドローンのカメラアイ」で書くことを試みたのだ。

 

 しかし、三人称で書くのであれば、どこか一つのシーンでもいい、主人公のいない場面、主人公以外の人間だけを描いているシーンがあってしかるべきなのに、それがない。

 

 実質的に一人称小説と同じ語り口になってしまっている。アマチュアがやりがちなミスだが。

 

 三人称の語り口の中に客観性を期待する読者は、読み進めるうちに実は主人公と書き手が一体化していることに否応(いやおう)なしに気づかされる。

 

 その結果、作者の意図した「義憤」が読者には殆ど届かない結果になってしまっているのだ。むしろ、変な愛、「変愛」の悲劇性が、この小説の主題に見えてくる。少なくとも今の自分には。