最近、古文書の解読に火がつき、書籍を求めて神保町に行ったら「神田古本まつり」なるものがやっていた。


本当は数日かけてじっくり見て歩きたかったのだけれど、アメ横かよ?ってくらい混んでいて人混み嫌いのぼくには拷問以外の何物でもなかったので、よそ見をしていた美人なお姉さんが旦那と間違えて?おいらに腕組みしてきたことをこの日の収穫として、そそくさと退散したのであった。













 ウチの先祖は誰? 

誰しもそんな疑問を一度は持ったことがあるのではないだろうか。例えば、法事だとか親戚の集まりなんかをキッカケに。

かく言う自分も少年時代、歴オタだったことも手伝って、ウチの先祖は誰かと親戚中を訊いて歩いてウザがられたものである。





 〝先祖自慢あるある〟 

「ウチは武士だったけれど、いくさに敗れて落ち延びて百姓になった」

「家紋が大名の〇〇と同じで、どこかで枝分かれしたみたいだ」

「戦国武将に同じ苗字がいて、分家筋らしい」

などなど





個人的な歴史観だけど、日本人の本質的な部分は江戸時代からあまり変わっていないように思っている。

ジュリアナもハロウィン騒ぎも〝ええじゃないか〟とそんなに変わらないではないか。


若かりし頃に随分とクラブ通いをしたけれど、どんなに着飾ってカッコよく踊っているつもりでも、一歩退いて冷めた目で見ると、みんな盆踊りっぽいというか、やっぱり日本人は日本人なんだなぁとちょっと違和感を禁じ得なかった。







江戸時代の武士の割合は概ね1割程度と云われている。その根拠は、明治時代の士族と卒族(下級武士)の数が合わせて約200万人で、当時の人口は約3,300万人。だいたい6%。それに東北諸藩の藩士で〝賊軍〟として平民と記載された人たちがいたそうなので、多く見積もっても1割くらいであろう。

現在の日本の公務員の数は10.73%なので、概ねそんなイメージでいいと思う。

何が言いたいかというと、先祖自慢あるあるの多くは眉唾モノだということ。10人に1人いるかいないかのレベル。
しかも武士の家系であれば具体的な物証が残っているはず。槍とか刀とか、家の由緒書きだとか。



ただ、戦国時代のような中世まで遡ると、職業としての武士はごく少数で、多くは半農半士的な、自分たちで土地を耕して自分たちでその土地を守っていた集団が少なくなかったから、それを武士と呼べばまぁ確かにいっときは武士であった家も少なくないかもしれない。

いずれにしても武士至上主義というか貴賎尊卑観みたいなのが、多くの日本人の意識の根底にあるのは間違いない。

まぁ、先祖に興味を持つ理由は人それぞれだと思うけれど、概ねみんなアイデンティティに依るところだと思う。



先祖は誰か=自分は誰なのか 




ただ、ここで注意しなければならないのが〝先祖〟の定義で、そこのところを整理しておかなければ真相に近づけないのである。

そこで、大まかに

① 血縁関係(血筋)
② 家の継承(家系)
③ 苗字の相伝(家系)

の3つに分けて考えてみると分かりやすいと思う。

その前に、学校で〝士農工商〟と習ったと思うけれど、そんな制度があったワケではない。

何もないところからモノを生み出す農民は尊い。モノを作る職人はその次に尊い。
それに比べて商人は何も生産しないから卑しい。
そしてみんなを守る武士がいちばん偉い。
敬うべき順序。カーストのような制度ではなく、概念なのだ。

階級という意味では、士農工商それぞれの中にランクがあった。武士には大名から足軽まで幾重にも序列があったし、農民が暮らす村にも名主や庄屋、自作農、小作農、水呑といった階層があった。職人や商人の多くが暮らす都市部にも豪商から借家人に至るまで、村と似たような構造があった。

財力という意味では、足軽なんかよりも庄屋や豪商の方が遥かに有力であった。
水呑百姓が宮大工や呉服屋より偉いワケがない。


今の公務員を江戸時代の武士に比定したとすると、なんとなく当時の様子が見えてくる気がする。

下っ端の公務員よりも大地主や経営者の方がよっぽど力がある。ただ、役所なので気は使うだろう。きっと足軽と庄屋もそんな関係だっただろうと想像する。


話は戻って、先祖の定義の話。

は、戸籍を遡ればどの家も江戸末期くらいまでわかる。因みにぼくの高祖父(ひぃひぃじぃちゃん)は天保13年生まれ。その親の名前も判明している。特別な家でも何でもない、ただの小作農の家である。

逆に、庶民の場合、血筋の先祖を辿れるのは江戸時代の終わりくらいまでかもしれない。



はちょっと複雑で、必ずしも血縁とは限らない。

江戸時代の「家」というのは、今ぼくらがイエと呼んでいるものとはだいぶ性格が違う。
←これについて書き出したらブログという範疇を超えてしまったので割愛

村には割り当てられた「枠」みたいなのがあって、その構成単位が「家」だと考えればいいかな。

つまり、家は無闇やたらに増やせないし、
→20を5で割っていたところを10で割ることになったら自分たちの持ち分が減る

減ってしまっても困るのである。
→20を5で割っていたのを2で割ることになると自分たちの負担が大きくなって却って非効率

ある家で子がなかったり働けなくなったりした場合、村はその枠を潰さずになんとか補填しようとする。そこで「養子」をとらせて家を継承させるのだ。

養子は姻戚、傍系(妻の親族)などから選ぶことが多かったみたいだけど、その家に奉公にきていた人が働きぶりを認められて抜擢されたりもしたようである。


家系の先祖を辿るには、古い墓や過去帳、古文書を調べるのが有効だけど、手法等については超絶マニアックなのでここではやめておく。

これはウチの古い墓だけれど、延享3年(1746)や寛政2年(1790)のもので、俗名までは判明しないけれど戒名はなんとか判る。左下のは上の文字が欠けてしまっているけれど「○奏妙楽信女」と彫られていて、生前は何か楽器を弾いていたのだろうと連想させ、ちょっとほのぼのしてくる。

ところで、江戸時代には参り墓埋め墓の2種類があって、上の写真は参り墓。

参り墓は家の敷地に建てられて亡骸は当然そこには埋まっていない。言ってみれば供養碑。
埋め墓は村の外れなんかにあって、土葬してその上に大きな石なんかを載せておくだけ。


は言ってみれば家の看板だから、家と共に引き継がれる場合が多い。
ただ、苗字の発祥と、で遡った先とがなかなか結びつかない場合が多い。

だからこそ、探究するのが楽しいし、何か発見があったり、点と点とが線で結ばれたときの嬉しさと言ったら鼻血ブーである。たとえ自分の家でなくとも。



で、前置きが長過ぎたけれど(笑)十数年ぶりに父の郷里である山梨県の八代町と、苗字の発祥の地である石和をドライブしてきた。

石和の駅周辺がなんとまぁ綺麗に整備されたことか... 駅名も「石和温泉駅」になっている。

そう言えば、〝信玄の隠し湯〟と云われる温泉が山梨県内に数カ所あるため、石和もそうだと思っている人がいるようだが、石和で温泉が湧いたのは父が中学生くらい(昭和30年代)のときらしい。

カフェっぽい店構えだけど、スペルが間違っているのがやっぱり石和よね。

子どもの頃、この川で何度か釣りをしたのだけれど、川沿いに建ち並ぶ温泉宿が湯を川に流していたものだから、熱帯魚化したフナが釣れたりした。どういうのかって?背びれや腹びれが巨大化してファインディング・ニモみたいになってしまったヤツ。さすがに色までは変わっていなかったけれど。


ぼくの苗字は、山梨県を流れる笛吹川にゆかりのある苗字で、流域には同じ苗字の家が多いだけでなく、ちょっとした史跡なんかもあって、それらを巡っていてとっても楽しかった。

自分の先祖や苗字のルーツを辿る旅は、他の人にとっては面白くもなんともないけれど、当事者にとっては感慨深いものになると思う。

どうせ何もないなんて諦めずに、意外と発見が多いので、やってみたら良いと思う。