5-18 当流聖人の御文  ー自分で自分は持ち上げることができないー | 新・坊主日記

新・坊主日記

2007年2月22日からブラジルの、サンパウロ別院でお仕事をする事になりました。
日本とは場所も言葉も文化も違うところですが、人間が喜怒哀楽の中で生きているのは同じです。
沢山の人たちに出会って共に学び合いたい!
坊主日記、2014年からはマリリア編に突入!

5-18 Carta sobre o Mestre da nossa tradição. Bom dia Rito matinal do Templo em Marilia. ブラジル🇧🇷お寺から

 
おはようございます。
今日は散髪をしてさっぱりしました!
散歩も結構したし、いつもより運動をしました。
お勤めの前に紹介した尾畑先生の論文のポルトガル語テキストのリンクをここにも紹介しておきますね。ポルトガル語のみですがよかったらダウンロードしてご覧ください。
 
 
 
 
それでは一緒にお勤めをいたしましょう。
 

 

5-18 当流聖人の御文

 

当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。

さてこのうへには、なほわが身の後生のたすからんことのうれしさをおもひいださんときは、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

感話

 

罪のふかきことをばうちすてて、罪悪の自覚、他でもないこの自分の根本的な罪悪を、打ち捨てるとはどういうことでしょうか? 自分の罪悪を自分の了見や世間の常識で解決することを打ち捨てるということではないかと思います。

 ですから罪の深いことを自分でなんとかするというその気持自身がまだ自覚にいたっていない、なんとかなるとどこかで思っているのです。その思い上がりの心を罪悪と言っているというのであって、世間の刑事罰とはまたニュアンスが違うのだと思います。 それを雑行、雑修といい、自力と言って罪悪と名付けていて、他力とか本願力とはその自分では気が付きにくい闇を照らしてくれる教えの光として表現してあるのではないでしょうか?

 日常で反省してその反対の良いことをして努力し向上していってもその事が間に合っていかないのは、自分で自分自身を持ち上げることができないと喩えられています。

 南無阿弥陀仏の呼び声はすべての人を等しく救います。

 

それではまた明日一緒にお参りいたしましょう。

チャオチャオ!

 

 

 

 

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