2-11 carta sobre o princípio dos cinco vínculos interligados. Bom dia rito matinal. ブラジル朝のお勤め
おはようございます! 毎朝7:30にブラジルからマリリア真宗本願寺から朝のお参りを中継しています。
一緒にお参りしましょう! コロナ騒動はブラジルでも引き続き続いていますが、私はこのブログや朝のと勤めの中継を毎日の日課にしてリズムを作っています。 いつもなら急なお仕事や、いろいろなイベントが重なることがきっかけでまさに三日坊主になることが多いのですが、今のところ続いていてちょっとした小さな生きがいになっています。 実際勉強にもなりますし、思ったより見てくれる人もいるので嬉しいです。 コロナ騒動が終わっても続けて行きたいなー
さて今日は正信偈のお参りです。
こちらからお勤めの本をダウンロードできます。 (無料です)
正信偈は29ページからとなります。動画内でもページ数をアナウンスしております。
それではお参りご一緒しましょう。(^○^)
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(2ー11)五重の義の御文
それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。 これおほきにあさましき次第なり。
そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。
これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。
これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六年五月二十日]
感想
今回の御文の題名が「五重の義」でこのリンクを辿れば、その典拠が先代の存覚上人の『浄土見聞集』という著書であることがわかる。 この御文の場合、「善知識」つまり人生を変えるきっかけとなる本当の師との出会い、いまでいうメンターを崇めるあまり、自分を見失い、また大切なその人がといてくれた教えから逸脱する危うさをといていて、そのズレた軸を修正しようとしてくださっている。 人生において本当にある人を尊敬することは難しい、大概の場合自分の都合や願いに合っているからであって、ちょっとしたことで自分の人生観が変わったら、当てが外れた時心が変わる。 またその師が教えてくれている教えそのものではなくその人の人柄やその人の人徳のパワーを当てにして、自分自身は何もしなくても大丈夫なように思ってしまう。
それは仏教に限らず普段の生活の中で起こり続けていることだと思う。 今回のテーマは教えに対する意識を明確にすることでは無いかと思う。 他力と他の人の力は全然意味が違うのである。 昨日の御文と連動して、私たちが本当に助かっていく道をふみはずす姿を具体的に教えてくださっている。
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