兄と兄のお嫁さん一緒に、という事も嬉しい事でした。
さらに広島の桑門さんの法話を頂いたという事も御縁なのかな、と感慨深い思いでした。
今日はその法話を紹介します。
「20年ほど前の話。私が(桑門さん)が20代の頃、月に一度の命日にお参りに行く度に、喧嘩をしている夫婦がおいでになりました。
若い頃の私は、その喧嘩をどうすることもできず、どちらの味方につくわけにもいかずに気まずい思いで毎月、苦手意識を持ちつつお参りしていました。
「早くお勤めをして早く帰りたい」とそんな事ばかりを思っていましたが、そんなときに限って読経の後に暑~いお茶が出て、気まずい思いでお茶をすすっては帰るという具合でした。

その旦那さんが亡くなったとき、お骨を抱いたお婆ちゃんが「あの人はとっても優しい人でした」と言った。「あれだけ喧嘩していたのになんじゃそれは!?」と、その時はそのお婆ちゃんの真意を計りかねたけれど、
今から4年前自分自身のおやじが亡くなってはじめて、その時のお婆ちゃんの気持ちが心に落ちたのです。」
私自身、親父が生きていた頃に心の底から「おやじありがとう」と言えた事がありませんでした。反発ばかりしていました。
「ありがとう」と言ったとしてもおこづかいをもらった時くらいでして・・・
心の底から「ありがとう」と言った事は無かったのですね。

ある物語に、宿泊をした人が自慢のベッドのサイズに合わずベッドから足がはみ出ていると、やどの主人ははみだしたその足を切り自慢のベッドのサイズに合わせます。
そのベッドのサイズよりも身長が小さすぎる宿泊者の場合はそのお客をつき殺し、ぴったりとサイズの合う人だったら大歓迎して歓待するというお話があります。
私たちも自分自身の心の中にそれぞれ自慢のベッドを持っていて、それに合う人をいい人だねと言い、合わない人を「あの人はヒドい人や」となじって、切り刻んでいるのです。

結局私は自分の都合のいい時は「いいおやじ」で自分の都合の悪い時は「いやなおやじ」
そうやっておやじを切り刻んでいたのです。
でも、もう切り刻もうと思っても今は出来ないんですね。
憎たらしいと思っても、そのおやじはもう目の前にいないのですから。
そして、最近になってわたしの心の底の底のある部分から「おやじありがとう」
という心の底の言葉が出てくるんですね。
あの喧嘩ばかりしていたおばあちゃんもそういう気持ちで言われたのだなと、最近になって気づかせて頂いたのです。
私たちは、ありがとうと言うときに心からの感謝の気持ちと同時に懺悔の気持ちを伴うのです。
自分の都合で他人を切り刻み、時には自分自身を切り刻み、そして、仏様まで切り刻んで生きている事への懺悔をともなった時に
「ありがとう」「優しい人でした」と自然と手が合わさるのですね。
以上桑門真昭 住職の法話の抜粋です。
桑門さんのお話は私の稚拙な文章では表しがたいのですが、その素晴らしさの少しでも伝わったらと思います。生で聞くと、その全身からあふれる情熱と人柄に引き込まれます。主に広島にて精力的に法話をされていますが、是非聞きに来て下さい。もしかしたら呼んだら来てくださるかも

法話の日程は桑門さんのお寺「常念寺」のホームページで確認出来ます。
最後におまけの動画です。
初めて本山でお話をされたので緊張されていたようです(笑)