勉強って何のためにするの? | 館山市議会議員「石井としひろ」のブログ

勉強って何のためにするの?

勉強をなぜするのか?

 

という問いは誰もが、口に出すなり、心の中で思うなりしたもの、かつ、今の子どもの素朴な疑問です。

 

しかし、誰も納得のいく答えをくれないし、自分も見つからないまま、学校教育を終えているものです。

 

 

似たような問いで、「教育は何のため?」と聞かれれば、答えられます。

 

教育基本法の前文と第1章に書いてあるからです。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html

 

参照できるように、上記リンクを貼りましたが、敢えて転載はしません。

 

すぐ答えを探せるのも教育の成果かも知れません。公務員なり議員なり、政治に関わっていると、該当する法律や国の指針を探して、最初の方にある「目的」を朗読するなり、要約すればいいということはわかります。ただ、こんなものを探せるのは、教育の成果というより、むしろ単なる「マニュアル的対応」です。

 

実際に、該当条文を読めば、確かにその通りなんですけれども、なんかピンと来ません。小さいお子さんに話しても、ピンと来ないままでしょう。

 

 

前のブログで、人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を取り上げましたが、

 

新垣結衣さん演じる森山みくりは、有名大学の文系心理学科を優秀な成績で卒業しながら、就職活動は全滅。それで、大学院に進学して、臨床心理士の資格も取得しましたが、またしても就職活動は全滅。その後、真面目に派遣社員として働いていても、派遣切りに遭い、ひょんなことから家事代行のパートをすることになりました。勉強ができただけではなく、家事も得意で、機転も利き、対人的なコミュニケーション能力もあります。それでも、定職が見つからず、ドラマの最終回では、商店街活動に少し自分の居場所と適性を見出します。

 

ドラマは、家事代行の雇い主である真面目な草食中年と、住みこみ労働のために偽装結婚をして、それが本物の結婚につながっていくという面白いラブコメがメインなのですが、家事労働の金額的対価とか、女性のキャリアとか、ゲイという性的マイノリティーとか、都市と田舎の違いとか、多様な社会問題も扱う社会派作品でもあることが人気の理由だと思います。登場人物に多様性もありました。また、ちょこっと、市議会議員とは何ぞや?という話題もありました。

 

このように、森山みくりは、学校教育の模範生であり、学歴エリートだったわけですが、「学校的価値観」に染まらず、健気に生きています。

 

話は少し変わりますが、「学校的価値観」とは、梅原大吾とちきりんの対談本に出てきた言葉です(敬称略)。この本以外でも、もちろん色々な定義で使われてきた言葉ですが・・・。

 

[ちきりん, 梅原大吾]の悩みどころと逃げどころ(小学館新書)

 

学校的価値観とは、「先生の言うことを良く聞き、良い成績をとって、難関大学に合格し、大企業(東証一部上場企業)に入社すること」です。

 

梅原(実名)は、授業で寝てばかりいた学校おちこぼれ、しかし、格闘ゲームで世界一になり、それで食っています。

 

ちきりん(匿名)は、学校的価値観のなかを要領よく立ち回り、難関大学に入り、大企業に入社。現在は、ブログや本の執筆、コンサルタントなどで食っています。

 

梅原は一つの物事を極めるタイプ、ちきりんは多くの事を要領よく合格点でこなしていくタイプ。2人とも間逆のタイプですが、共通するのは、「学校的価値観の否定」です。

 

 

ところで、私も学校的価値観を否定するタイプで、高校卒業後に2浪していますが、その間に大学に行く意味を見失って、フリーターを半年くらいやっていた時期がありました。しかし、私は自由気ままに生きていけるほど逞しくなく、また、学歴のないフリーターに対する世間の目は厳しいことから、再び大学入試に挑み突破し、学校的価値観の世界に戻り、大企業に5年半いました。その後、また終身雇用という学校的価値観から脱落して退職し、脱落すると苦労するんですけど、現在は館山市議会議員になっています。案外、政治家とは、学校的価値観から逸脱したアウトローです。

 

そんな私が思うのは、ちきりんと梅原が対談で合意した「学校教育では、幸せに生きる方法を教えるべき」という総論に賛成ということです。

 

では、幸せに生きるために何を学ぶのかというと、

 

(1)常識を覚えること。

(2)常識を疑い、常識を超えること。

 

だと思います。

 

両方大事なのですが、

『(1)常識を覚えること』これこそが、学校的価値観であり、これはこれで必要だと思います。

『(2)常識を疑い、常識を超えること。』は、学校的価値観の否定です。

 

現在の教育に何が足りないかというと、『(2)常識を疑い、常識を超えること。』です。学校的価値観とは、言い方を変えれば「設問の模範解答が間違っているのではないかと疑わない」、さらに言うなら、「自分の頭で考えない」ということです。

 

現在の学校教育では、設問の答えに疑問を抱いても、そんな疑問なんか早く忘れ、速やかに暗記するテクニックを磨き、覚えてしまう方が成績向上につながります。

 

そして、こういう設問の答えに疑問を抱かない人は、公務員に向いています。

 

また、学校で教えている科目も、公務員には必要なものです。議員になって、行政の職員とやり取りするなかで、実感しました。今までは、民間企業にいて、学校教育はほとんど役に立たないことを痛感していましたが、実際のところ役に立つ職業は、「」ではなく「」でした。そもそも、学校教育の頂点である東京大学は、官僚の養成校であり、そこを中心にして、学校制度が作られているわけですから、「官」養成の教育になっているのも当然です。

 

 

視点を変えて、議員という政治家に求められる資質は、

 

(2)常識を疑い、常識を超えること。

 

です。

 

それも当然で、今まである常識であり、最上位の道徳でもある「法令」を変えたり、廃止したり、新たに創る仕事だからです。

 

 

現在の日本の民間企業でも、

 

(1)常識を守ること

 

と同時に、

 

(2)常識を疑い、常識を超えること。

 

が求められています。これを言い換えると「技術革新」です。これは、ものづくりだけではなく、仕事のやり方でも、イノベーションは必要です。

 

 

現在の教育に決定的に足りないのは、やはり

 

常識を疑い、常識を超えること。

 

です。

 

そして、常識を超える人を増やすためには、常識違いのこと、一見トンチンカンなことを言う人を増やすことです。それは、みんな違っていいという多様性を、理念という念仏だけではなく、実際に認めることです

 

 

さて、一定の結論が出たところで、オチですが、学校教育において、丸刈り強制とか、学生服の強制着用とか、バイト禁止とか、本当にバカバカしいと思います。これって、多様性の否定でもあるのですが、そもそも人権侵害ではないでしょうか。

 

このように各論になると、「(学校的価値観に疑問を呈しているとはいえ)、その言い分はなんか違うんじゃないか」という異論は出てくると思いますが、そもそも現状がバカバカしいという異論すら封じられること自体が、思考停止であり、これこそ学校的価値観の弊害だと思います。

 

思考停止の最たるものが、ナチス政権下で、ユダヤ人を大量虐殺したアイヒマンです。彼は、戦後になってイスラエルに逮捕された時、「自分は命令に従っただけで、一切法令違反はない。官僚として当時の法律や命令に反することは不可能」と一貫して主張しましたが、時代と場所が変わった途端に、思考停止のバカとして処刑されました。