週刊誌の記事から「言論の自由」と「男女区分」を考える(2) | 館山市議会議員「石井としひろ」のブログ

週刊誌の記事から「言論の自由」と「男女区分」を考える(2)

前回のブログの続編です。

6月29日の15時時点では、水野ゆうき県議のブログは、事実関係についての記載が乏しかった為、

『記事のどこが「虚偽」であるのか示していません』

と私は書きました。

その後、同日22時過ぎに、水野ゆうき氏は、

事実と経緯のご説明
http://ameblo.jp/yuukimizuno/entry-12044577462.html

というブログを更新し、どこが虚偽であるかなどを示しました。

そもそもの発端となった早川真氏(我孫子市議・社民・44歳、男性)による6月19日の我孫子市議会総務企画常任委員会での選挙管理委員会事務局への約15分間の質問は、我孫子市議会議会中継というサイトで見ました。
http://www.discussvision.net/abikosi/2.html

そして、週刊ポストの記事、水野ゆうき氏のブログ、そして早川真氏による選挙管理委員会事務局への質問を比較した限りではありますが、私独自に争点を整理してみました。

①選挙葉書の推薦欄に故人(福嶋浩彦夫人)の名前が記載されたものがあったか?

☆水野ゆうき氏:なかったか、あるいは誤記によるものが1枚あったか。
△週刊ポスト:1枚はあったが、枚数は不明。
■早川真氏:あったのは事実であろうがと述べるも、枚数に言及せず。

*石井敏宏私見:選挙実務の相場観ですが、失職云々という大それた話にはならないと思います。

②水野氏は、福嶋浩彦氏(元我孫子市長)に応援を頼んだか?
☆水野ゆうき氏:頼んでいない。
△週刊ポスト:応援を断られたはず。
■早川真氏:推薦を断られた。

*石井敏宏私見:よくわからないので、福嶋浩彦氏の再度のコメントが欲しいところです。言った言わないの水掛け論で小さな話だと思います。早川真氏と週刊ポスト側が「応援を頼んだ」と主張したいのであれば、同時に事実の立証責任もあります。

③その他
(1)
■早川真氏:氏名を掲示したのぼり旗を長期間掲示した候補者は水野氏であると臭わせる。また、断定しないように言葉を選びながらも、水野氏への批判の演説を繰り返した。
☆水野ゆうき氏:早川氏の発言内容には言及せずも、虚偽と名誉棄損である、としている。

*石井敏宏私見:早川真氏の発言は、根拠不十分なのに大げさな批判が多い、と思う一方、議事録削除とか刑事告訴されるという話でもないと思います。

(2)
△週刊ポスト:ある市議(匿名)の「そもそも水野氏を有名にした『生理なの?』という発言は年配の女性市議の言葉なんです。誰もが男性のセクハラだと思い込んでいます。彼女はマスコミの注目を浴びたいだけではと疑問を抱く市民がいるのは事実です。市議時代にはブログで食べ物の写真を載せるより、市のために汗を流せという声も多かった」という発言を紹介。

☆水野ゆうき氏:この発言には言及せずも、「悪意ある印象操作及び虚偽、侮辱に値する記事」の一部としている。

*石井敏宏私見:週刊ポストの記事で興味深いのは、この匿名市議のコメントと、福嶋浩彦氏から水野氏への痛烈な批判です。

『テレビで人気の「美人すぎる県議」が死人の推薦状で選挙に出ていた』と表紙にまで出ていたタイトルは大袈裟であり、選挙葉書の推薦人の件は読んでいて、小さい話だと思いました。また、応援を頼んだ、いや頼んでいないという話も、関係ない人間からすると小さな問題です。


さて、ようやくここからが本題なのですが、「やれ、議事録削除だ。刑事告訴だ。」と、批判者を威嚇するのはいかがなものか、とやはり思います。相手と話し合ってもラチがあかない場合は、民事訴訟というのはわかりますが。

偶然でしょうが、今回の週刊ポストには、田中角栄語録が載っています。その名言の1つに、

「仕事をすれば批判や反対があって当然。何もやらなければ、叱る声も出ない。たとえ悪口が聞こえてもそれは仕事をしている証拠だ。」

というのがありました。そして解説には、『角栄は多くの批判に晒されながらも、「決して人の悪口を言わなかった」と伝えられる』と記されていました。

実際は、愚痴くらいは言っていたようですが、確かに、恫喝や威嚇で発言を封じ込めることはしませんでした。ちなみに、自分以外の第三者への批判本を、著者に対して出さないでくれないか、とアメをちらつかせて交渉したことはありましたが、断られても嫌がらせはしませんでした。

その著者は、『角栄、もういいかげんにせんかい』という本を出しましたが、読むと面白いんですね。軽妙なタッチで、田中角栄をボロクソに批判していますが、角栄を評価すべきところは評価しています。読んでいるとむしろ、「田中角栄は、批判されるべきとことは色々あるにせよ、やっぱり立派だなぁ」と好感を持ってしまいます。その本の中で紹介されていたエピソードですが、自分がボロクソに言われたのが人づてに角栄の耳に入ったところ、角栄は「その通りだなぁ。うまい事を言う。」との旨を、つぶやいたそうです。

時代は変わり、裏技的な田中角栄的政治手法は否定されるようになりました。しかし、批判を受け入れる度量を持った政治家が増えて欲しいな、と切に願います。

もちろん、虚偽は改めてもらわなくてはなりませんし、見解の相違があればお互いが、堂々と公開の場(本人同士が顔を合わせる公開討論でもよいし、ネットでのやり取りでもいい)で本物の討論をやればいいと思います。

公開の場で堂々と争って、それを不特定多数の市民の審判に委ねる。
これが、密室でのやり取りが多かった田中角栄時代と変わるべきところではないでしょうか。

これこそまさに、ソーシャルメディアの得意分野であり、田中角栄時代とは違ったネット時代というものです。

公の場での言論に異議があるならば、公開の言論で対処すべきというのが言論人の矜持だと思います。

裏での圧力をはねのけ必死で公開での言論を続けてきた者として、虚偽の訂正を求めることはあります。しかし、法的手段をちらつかせ全部撤回しろとか、民事訴訟をせずにいきなり刑事告訴ということはありません。もしそれをやれば、合法的にせよ、自分が他者の言論に圧力をかけることになるからです。

言論に圧力をかけることは、言論の自由を守ってきた者の矜持としてできません。

「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールの言葉はやはり至言です。

そして、どちらが正しいか、何が正しいかを最終的に判断するのは、当事者ではありません。また、司法機関や議員だけでもありません。それを最終的に判断すべきは、限定されることのない不特定多数の市民になります。