秋田市の肥料メーカーが、自社で生産する有機肥料の原料や成分、配合において、偽装表示をしていたことが発覚した。時を同じくして、WHOが加工肉の発がん性について警告を促す発表をした。偽装自体はあってはならないことだし、有機栽培の可能性を開拓する農家や、消費者を裏切る行為だ。発がん性についてはデータが曖昧すぎて非常にわかりにくい。だが、私が注目したいのはそこでは無い。その背景にある『今、農業や畜産業の現場で何が起きているのか?』だ。

以前見た『フードインク』という映画を思い出す。大量生産・大量消費型の収益重視のアメリカ社会で、工業化された大規模農業と政治が結びついていく様子や、郷土料理・地物・旬の物という概念が乏し、安価なジャンクフードが好まれる風土が育った背景などが描かれている。衝撃的な内用も含まれる作品で、視聴後、後味の悪さというか、なんともいえない虚しさと怒りが込み上げた。

誰だって値段が同じなら、化学肥料や農薬づけの野菜より有機栽培の野菜を買うだろうし、ミンチ肉にスパイスと一緒に薬品を混ぜた加工品より、生肉を選ぶだろう。だが、経済的な理由で安価なものを選ばざるを得ない人もいる。

ちょっとまてよ。いつの間に、私たちは二択のどちらかを選ばなくてはならいようになったのだ?

気づいたら知らないうちに、安価なもので溢れていないか?

世の常として、安価な粗悪品が増えれば増える程、それまで当たり前だった商品の需要が低くなってしまう。その結果、当たり前の物がいつのまにか高額な一級品へと変化してしまう。かといって安価なものに慣れてしまったら、自らの意志で高額なものへとシフトすることは難しい。

このロジックにまんまと嵌ってしまったのが、アメリカなのだ。

日本だって、もはや他人事ではない。私たちは、中国産の食品の衛生管理や、薬品の過剰使用については、敏感になっているが、アメリカ産の牛肉には日本では使用が禁止さている成長ホルモンが使用されていることなど気にせず、安価な牛肉を喜んで食べている。

もちろん、薬品や化学物質の人体への影響を調査する事も重要だが、それは、何十年後か後に摂取し続けた結果でしか答えがでない問題を今議論しているようなもので、あまり効果的とはいえない。

問題は価格競争社会における農業・畜産業・水産業にの在り方そのものであり、せめて食べ物くらいは、フツーに安全なものが、フツーの値段で取引される様に政治が積極的に関与しなくてはしなくてはいけない。これらの業種に大手企業の自由競争の論理を安易に取り入れて、産業として収益重視という風土を根付かせてはアメリカと同じ過ちを繰り返すだろう。

食の産業は、私たちみんなで守り、育てていくべき宝だと思う。




秋晴れにふさわしい、何とも気持ちのスカッとするニュースが続いている。大村氏と梶田氏のノーベル賞W受賞とラグビーワールドカップでの日本代表の3勝は、いずれも緻密な努力を積み重ね、苦難の末に栄誉を掴みとる日本人らしさが呼び寄せた吉報だ。

大村氏が寄生虫感染症の治療薬:イベルメクチンを発見する迄の道のりは、実に地味な作業だ。日常的に採取袋を持ち歩き、あらゆる場所からランダムに土を採取して研究室に持ち帰り、年間で2000株もの微生物を培養して、微生物が作る化学物質に使えそうなものがあるかどうかを調べ続ける。その繰り返しの中からイベルメクチンのほかにも、数多くの化学物質を発見し、25種類以上が医薬品などに実用化されている。

梶田氏の研究は、いわば「待ち」の研究。超純水を蓄えた巨大な水槽で、ニュートリノが通ったときに発するわずかな光を捉え、そのデータをひたすら解析していった。ニュートリノに質量があることを示す「ニュートリノ振動」の兆候をつかんでから、「間違いない」と証明するまでに約10年かかった巨大なプロジェクトである。

そして、ラグビー日本代表。エディー・ジョーンズ監督率いる日本代表は、格闘技並にコンタクトプレーが多いスポーツで小柄な日本人が勝つ為には、世界の真似ではない日本人らしいラグビーをするべきだと考え、一つ一つ積みあげていった。小柄であるからこそ可能なスピーディーで連携の穫れたパス回しでボールの保持率を上げ、じわじわと攻める。低いスクラムで相手の弱点を攻める。これらのスキルを上げる為に、筋力の増加と持久力を高めるハードワークと栄養管理などに加え、GPSなどの科学的アプローチも積極的に取り入れた。その結果、何よりも変化したのはフィジカル以上にメンタルだった。勤勉で忍耐力の強い日本人だからこそこなせた過酷なトレーニングによって裏付けられた「日本人でも勝てる」という強い意志が勝利を呼び込む鍵となった。

研究とスポーツが同じだとは言わない。只、何かを成し遂げるということは、自分の才能を他者と比べて推し量るのではなく、自分と向き合い、自分ができる最善の方法で、自分の限界まで挑戦し続ける勇気と妥協を許さない純粋な精神に突き動かされることだと思う。少なくとも、「希なる才能ではない努力の積み重ね」こそが、日本のお家芸だと世界中が賞賛しているのだから。






 
 
シリア少年が海岸に打ち上げられた映像に、世界中から難民支援の声が上がった。国際社会が抱える紛争、迫害、貧困、と一国の経済活動の関係が大きな転換期を迎えようとしている今、難民の問題は遠い国の話ではない。

そもそも難民認定事態にハードルがある。紛争地域から自力で他国を目指せる人は、経済的にも裕福で、一定以上の情報を入手できる知識階級が多い。貧困であるが故に情報も届かず、キャンプ地などに留まる他にすべを持たない人とは状況が違うので、どこまでを難民と認定するかは課題であり、範囲を広げれば、シリア国民の大半が他国へ移住する事となる。とはいえ、命の危機に曝されている状況には変わらないし、救われる命に順番をつけることはできない。

一方、積極的に受け入れを表明しているドイツに眼を向けると、中小規模事業の生産力を重視するドイツの社会制度の背景にある、労働力の確保という経済行為の側面が大きい。労働者にとっては、低賃金でも生涯雇用を見込めるメリットは大きく、シリアの人々にとって憧れの国となっているようだ。しかし、すべてを受け入れるのは困難だし、仮に他の国で一時的に受け入れたとしても、イスラムの文化に対する寛容な風土が根付いていな地域での生活は、受け入れ国にも移民にとっても双方に不幸な結果を招く事も多い。

シリアに限らず中東の紛争地区から脱出する難民の問題は、もはや各国の事情や独自の理論で対応するには限界を迎えたようだ。一番重要なことは、EU諸国だけでなく、日本や米国を含めて世界全体で、宗教や民族の違いや、人道支援に基づく難民受け入れの共通の認識や、ルールづくりを進め、一拠点へのなだれ込みを防ぐ事だ。これが後手に回れば、行き場を失い民族大移動と化した人々の不満は新たな紛争の火種となるだろう。

戦後70年。今日本は大きな決断をしようとしている。世界の紛争を横目に、平和の唄を歌いながら、自国の発展に集中できた時代は確実に終わった。これからは、「自国の利益」と「平和外交」という2枚看板を使い分けながら国際社会の中で「頼られる国」となることが求められている。平和の唄を歌い続ける勇気と、唄の力の限界を認める勇気の両方が重なり合ってこそ、政治は本当の意味で政治力となり、多くの幸福に繋がるのだと思う。