苟 不 教 (苟くも教えずんば)
性 乃 遷 (性乃ち遷る)
教 之 道 (教えの道は)
貴 以 専 (専らを以て貴ぶ)
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《大 意》
本来は善であるはずの人の本性も、
教え導かないとどんどん悪いほうに
変わっていってしまう。
だから教えることは大切であるし、
教えを受けて学ぶことも大切である。
そして、教えを受けるときには、
あちこちに気を散らさずに
学ぶことに集中する。
これが最も大切である。
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《解 説》
もともと人間は善なる性質を
持っているはずです。
悪いことをしようと思う
赤ちゃんはいませんし、
いたずらっ子の幼稚園児でも
悪事を働こうとは考えません。
それなのに、だんだん
悪くなってしまう人がいるのは
どうしてなのでしょうか。
それは、きちんとした教えを
受けたことがないからだと、
ここではいっています。
* *
少年院の教官をしている方から
聞いた話ですが、
少年院に入る子の多くは、
正しく箸や鉛筆が持てないと
いうのです。
また、集中して本を読むことが
できない子が多いそうです。
彼らは家庭教育の中で
箸の持ち方や鉛筆の持ち方、
本を読む力といった基本的なことを
教えられないまま
成長してしまったのです。
きちんと箸を持って食べ、
鉛筆を持って書き、
本を読むことができるように
なるためには、それらの大切さを
しっかり教えてくれる人が必要です。
* *
昔、インドの山中でアマラとカマラと
いう狼少女が発見されました。
彼女たちは幼い頃、親に捨てられて、
狼に育てられたといわれます。
そのため、狼のような唸り声をあげ、
四足で歩きました。
狼の生活様式を教えられて、
狼として育ったのです。
良し悪しを問わず、人間にとって
教えの影響力は大きなものです。
狼に育てられれば、
人は狼のようにもなるのです。
だから、幼い頃から
しっかり教えなくてはいけない。
そして、教わる側は心を集中して
学ばなくてはいけません。
「やると決めたら途中で放り出さずに
最後までやりなさい」と
『三字経』はいっています。
それが「専らを以て貴ぶ」
という言葉です。
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たとえば問題集をやり始めて、
最初はやる気になっていたけれど、
十ページも進まないうちに
「ああ、やめた」というのは
「専ら」とはいえません。
身近な例でいうと、勉強の最中に
ラインが来てレスポンスしなければと
気になって仕方がない。
そういうときに、「専ら」でない人は
勉強に集中できずについレスポンスを
してしまいます。
それによって勉強が
中断してしまうわけです。
これではいくら勉強しても
身につきません。
善なる性質を引き出すには
真剣に学ばなくてはいけません。
気を散らしている人は
なかなか立派な人間にはなれないのです。
だから「専らを以て貴ぶ」。
SNSなどに気を散らさないで、
集中して勉強をする時間をつくることが
大切だということです。
昔も今も、これは変わりません。
齋藤孝・著
『子どもの人間力を高める「三字経」』
(致知出版社)より