曇り空がつづいていますね。

今日の夕刻に空を見上げると、終末の色をしていたのが印象的でした。

 

さて、来る10月22日。

今年は何かと注目を集めるこの日ですが、わたし自身ある別のことに思いを馳せる日でもあります。

この日は「中也忌」です。

教科書にも載る詩人ですから、意識せずとも一節耳にしたことはあるでしょう。

わたしは中也の詩が大好きです。

数奇な運命をたどり、また若くしてこの世を去った”夭折の天才”の作品をひとつ紹介しようと思います。

空の色を、想像してみてください。

(表記は集英社文庫『汚れちまつた悲しみに…… 中原中也詩集』に拠りました。)

 

 

   北の海

 

海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

海にゐるのは、

あれは、浪ばかり。

 

曇った北海の空の下、

浪はところどころ歯をむいて、

空を呪ってゐるのです。

いつはてるとも知れない呪。

 

海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

海にゐるのは、

あれは、浪ばかり。

 

 

こんにちは、9月ももうお終いですね。

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

今日は、わたしが最近読んだ本(注1)を参考に、日本語の話をしようと思います。

 

突然ですが、チェシャ猫の首を切ることはできるでしょうか。

『不思議の国のアリス』を知っていれば、心当たりがあるでしょう。

チェシャ猫とは、身体を可視にしたり不可視にしたり――つまりは消えたり現れたりすることができる猫です。

ハートの女王がこの猫を打首と命ずるシーンが登場します。

そしてこのシーンである議論が繰り広げられます。

ある人は、身体の視えない猫の首を切ることはできないと言います。

ある人は、首が存在するのだからそれを切れないはずがないと言います。

この議論は根本的に成立し得ないものです。

それは何故か。両者が「切る」という日本語をどのように使用しているのか考えてみましょう。

 

前者は「切る」を三項関係で用いており、後者は二項関係で用いています。

「処刑人が猫の首を、猫の胴体から切り離す」

これは三つの存在が関係しています。「処刑人」「猫の首」「猫の胴体」です。

対する二項関係で考えると、

「処刑人が猫の首を切り離す」となります。

 

二項関係の別の例を考えてみましょう。

「爪を切る」と言えば、爪を短くする、すなわち爪の余分な部分(B)を爪(A)から切り離すことを意味します。

このとき、「AからBを切り離す」で、A=Bの関係が成り立ちます。

よって不要である「Aから」を省略していると考えられます。また、A=Bが成立しないにもかかわらず、二項の文章であるならば、一方は言及の必要がない、言わずもがなという場合でしょう。

 

よって「切る」という言葉は本来、三項関係に基づく言葉と言えます。

 

わたしたちは普段、何気なく日本語を使用しています。

そして『アリス』の例はその曖昧さが引き起こした議論であるです。

日本語を話すことと、それを使いこなすことは別問題です。

むしろ日本語に振り回されていることもあるのだと、気づくのもまた面白いのではないでしょうか。

 

注1 八木沢敬『「不思議の国のアリス」の分析哲学」講談社

 

秋といえばみなさんは何を思い浮かべますか?

 

今回は味覚の秋つまり食べ物について書いていきたいと思います。

 

皆さんは大根がどのようにできるかご存知ですか?

 

種を土にまくと芽が出で成長し大根となる。

 

確かにそのとおりです。しかし、農業はそんな簡単なことではないんです!

 

雑草を取るところから始まり、畑を耕す。

 

そして品質のよい大根を育てるためにいろんな肥料を使い、また耕します。

 

でもまだ、種はまきません。

 

大根は根菜です。つまり、上にも下にも成長します。

 

成長するうえで土が柔らかくないとまっすぐ伸びていきません。

 

なので畝を作ります。畑をよく耕して土を柔らかくしたあとに、2列の山を作ります。

 

こうしてやっと種をまくことができるんです。

 

きっと農作業を体験したことある人は少ないと思います。

 

野菜をつくることはとっても大変で時間のかかることです。

 

これから味覚の秋が始まります。

 

たくさんの食べ物を食べ、そのたびに食べ物に対しての感謝の気持ちを持ってほしいと思います。