三重県教育委員会が行っている、生徒用人権学習教材「わたしがかがやく」(豊かな 出会いの中で) | こちら "伊勢小隊 情報分隊" 【 I-PAS】

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Ise-Platoon Affairs Squad
Japan Narrow Casting

連帯を求め孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力を尽くさずして挫けること拒否する

「三重県人権センター」を考える会 です

三重県教育委員会による
日本人による朝鮮人虐殺部分だけを
切り取った教育


本日は
生徒用人権学習教材「わたしがかがやく」(豊かな 出会いの中で)より
56ページに
在日朝鮮人を守った美談として掲載されています


日本国民は朝鮮人を恐れていた

しかしですねぇー朝鮮人が、それまでにどのような事を単独や集団を含めて行ってきたかを伝えてから、デマが流されたと言うべきじゃないでしょうか?教育委員会の短く一方的な視点で書かれた資料を見た子供たちは「日本人はなんて酷い事をするんだろう」「朝鮮人に謝罪して罪を償わないといけない」「朝鮮人が行っていることは日本人が不当な無き差別をしたからだ」とすり込まれてしまうように思います。


資料現物です



56ページの一部を転載


1923(大正12)年9月に起きた関東大震災によって多くの人々の命が失われました。このとき「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れ、おそってくる。」というデマが流され、多数の朝鮮人が殺されました。
当時横浜鶴見警察の署長をつとめていた大川常吉は、朝鮮人、中国人合計301人を警察署にかくまいました。これを知った日本人は、署に押しかけ、「朝鮮人を殺せ。」、「奴らを出せ。」と叫びました。大川署長は「保護した朝鮮人はみな良民であり。」と群集を説得しようとしました。しかし、人々は納得しませんでした。覚悟を決めた署長は、群集の前に出て、「この大川を信頼せず、言うことを聞かないのなら、朝鮮人を殺す前に大川を殺せ!」と命をかけて1人で立ち向かいました。朝鮮人たちは命を助けられたのです。
「どこの国の人間であろうと、人の命にかわりない。それを守るのが俺の任務だ。」という
彼の勇気ある行動と精神は、今でも語り継がれています。なお1953(昭和28)年、大川署長の墓がある鶴見の東漸寺には、在日韓国、朝鮮人によってその勇気を讃える石碑が建てられました。

と三重県教育委員会が作った生徒に教えるテキストに書いてあります

ちなみに
皮肉なことに横浜近く川崎で
1947(昭和22)年6月23日 神奈川税務署員殉職事件
神奈川県川崎市桜本町(現在の川崎市川崎区桜本)で発生した在日朝鮮人による密造酒製造の取締りを発端とする在日朝鮮人の暴動と税関職員への襲撃、そしてそれによる職員の殉職事件。


それ以前の朝鮮人がらみ事件は

1921(大正10)年6月3日 東京市電運転手連続殺傷事件
東京市電の運転手だった朝鮮人が7人を殺害、10人を負傷させた

1931(昭和6)年1月18日 荏原警察署巡査殺害事件
秘密結社「赤色自衛団」が特高巡査を殺害

1932(昭和7)年1月8日 桜田門事件・昭和天皇暗殺未遂事件

1942(昭和17)年 多摩川流域軍需品窃盗団事件
軍需品工場を荒しまわる組織的窃盗団、窃盗338件、104人検挙

1945年以降の終戦後は
日本各地で在日朝鮮人がらみの事件は書ききれない状態ですから省略




ここまで傍若無人な振る舞いを行っているから、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」がデマだったのか?投げ入れたが被害が出なかったのか?怪しくなってきます


と言う事なので、大川署長の美談の中に「数々の殺人や暴動事件を起こしてきた朝鮮人でしたが、井戸に毒を投げ込んだのはデマだったようで大川署長が朝鮮人をかくまった」とでも書いた方が少しは事件に発展した経緯が判るのではないでしょうか?


今現在でも在日朝鮮人と支援者がアレコレ問題視している事があると思いますが、なぜそのようになったのか?発端は何だったんでしょうね。


今回は難しい事を言いやがるなぁーと
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