歩兵第六連隊の碑が
名古屋城跡にある
愛知県名古屋市・名古屋城二の丸跡に明治6年に
鎮台(ちんだい)が設けられ歩兵聯隊が置かれた
名古屋鎮台の管内では名古屋と金沢に組織され
名古屋に置かれたものが歩兵第六聯隊で
それが愛知県名古屋市
名古屋城二の丸跡にありました
第6連隊とは
1877年(明治10年) - 西南戦争に従軍
1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍
1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
1918年(大正7年)8月 - シベリア出兵、ネルチンスク方面に展開
1928年(昭和3年)5月 - 第三次山東出兵
1934年(昭和9年)4月 - 満州事変後に満州へ派遣
1937年(昭和12年)8月15日 - 動員下令、同月23日に上海呉淞に上陸、以後終戦まで中国各地を転戦
1938年(昭和13年)5月 - 徐州会戦
1942年(昭和17年)5月 - 浙カン作戦
1943年(昭和18年)2月 - 江北殲滅作戦
1943年(昭和18年)4月 - 江南殲滅作戦
1943年(昭和18年)11月 - 常徳殲滅作戦
1944年(昭和19年) - 大陸打通作戦
1945年(昭和20年)8月 - 終戦
第6連隊碑の現状は
馬魂碑
【昭和55年3月10日 歩六会建之】
建物は現在明治村に移築され保存されています
歩兵第六連隊由来碑
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
由来を刻み先人の偉績を顕彰しています
その前に日中米の
「ピンポン外交モニュメント」を作る暴挙
日清戦争から東アジアの秩序の為に戦った
第6連隊碑に対する嫌がらせのように見えてしまいます
ピンポン外交記念碑なんと言うシロモノを
設置した、大村知事の神経が理解できません。
敷島通信にリンク
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-category-4.html
一部転載**************************
ピンポン外交記念モニュメント 愛知県体育館正面玄関
画像右端、共産主義者・毛沢東(大躍進政策、チベット侵攻、東トルキスタン侵攻、ウイグル核実験、文化大革命等で、8000万人にも及ぶ人々を死に至らしめたとされる、人類史上トップクラスの殺戮・致死執行者)を掲示するなど、良識を疑う。ここは支那の天安門広場ではない。
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まさにその通りでしょう
大村知事の英霊に対する姿勢には
お手上げ状態です
大量虐殺の毛沢東を湛えるような鉄板を作る前に
第6連隊ひ碑周辺の整備を行って欲しいもんです
雑感
といった、重い話をぶち込んでみましたが、皆さんの近くにもこーいった碑があるんじゃないでしょうか?従軍して戦死した人の顕彰碑。そこは整備されているんでしょうか?歴史は語り継がれているんでしょうか?こーった人のおかげで私たちの生活があるんだと覚えておいて欲しいと思います。慰霊じゃなくって顕彰してくださいね。