第2214段 平家の再興
昔、男ありけり。今も男あり。
その男、令和4年5月21日
刈谷市文化協会所属の短歌部会の
月例歌会に次の歌を
今もなほ 平家再興 願ひゐて
末裔われは 三河にて待つ
事前に提出し臨みけり。
歌の心はその男の遠き祖先を慮りての作なり。
平家滅亡といへば平清盛公の三男である
平宗盛と息子の清宗が壇ノ浦の戦ひの後
鎌倉殿である源頼朝のもとへと護送され、京への帰路の
近江の国は篠原の宿近くにて源義経の手により
斬首刑されしとぞ伝はりぬ。
その処刑の様はあまりにも哀れにて
池に棲む数多の蛙がその日以降
一切鳴かなくなりしとぞ伝はりぬ。
されど、事実は息子の清宗は源義経の配慮により
秘かに処刑を逃れ、日本の山深き落人の里にて
平家の血筋を保ち続けているやも
の想により生まれたる作なり。
この歌を旗印にして、憎き源氏打倒の挙兵の予定なり。
而して、その男 平家の末裔なる事を証明する術を持たず
ただ単に親からの子へ、子から孫へと
幾世代にも亘る口承によるのみなり。
この歌の歌会での評価はその背景を理解されず
低き得点にとどまり悲願の再興も先延ばし
挙兵も当面は見合はせる事が妥当とぞ覚えけり。