昨日に続き、上演中の「父との夏」にまつわる話題である。本作で描かれる戦争時代のエピソードは、わたしの父親から実際に聞いたエピソードをそのまま使っている。まあ、息子には語りにくい悲惨なエピソードもあると想像するが、これが父にとって強烈な戦争の思い出だったことは事実だろう。いずれにせよ、そのエピソードは、劇作家の想像力だけでクリエイトするのは、なかなか難しいリアリティに溢れたエピソードである。
わたしが「父との夏」という戯曲を書く必然性を持っているのは、これが他の誰でもないわたしの父親が体験したエピソードだからである。もしも、これがわたしの知らない人が体験したエピソードだとすれば、わたしはこれをこのような形で本作を書くことはなかったと思う。わたしの父親は、たまたま劇作家=もの書きの息子を持っていたから本作はこのような形で作品になったと言える。言い換えば、わたしがもしも劇作家ではなく絵描きや音楽家だったら、このエピソードはこのような形で世に出ることはなかったにちがいない。
そして、ふと想像する。太平洋戦争という非日常的な出来事を体験した日本人は、それを体験した人の数だけその人特有の個人的な思い出を持っているにちがいない、と。それは必ずしも戦場で勇ましく敵と銃撃戦を繰り広げたとか、敵機と熾烈な空中戦を繰り広げたとか、そういう派手な出来事ではなく、もっと小さな、しかし、本人にとっては鮮烈な印象を残す出来事である。それは、例えば風呂に入れないとか、便所へ行けないとか、着るものがないとか、眠ることができないとか、そういう人間の生活に関する非常に些細な出来事である。そういう不都合の総体が戦争の実態である、と。
わたしたちが当たり前と思っていることが当たり前ではなくなる世界が戦争体験である。その意味において、戦争を描くことはわたしたちに当たり前の大切さを再認識させる契機になることは明らかである。いずれにせよ、戦争体験者には、それを体験した人の数だけそれぞれに忘れられない戦争体験があると思う。それが余り知られていないのは、戦争体験者の子供たちがみな劇作家ではないからである。
もしも、戦争体験者の子供たちがみな劇作家だったら、世の中にはたくさんの戦争体験者の忘れ難い珠玉のエピソードが紹介されるにちがいない。