平安とは、物理的な意味においては社会秩序が保たれ、人々が平穏な暮らしができることだろうが、精神的な意味においては人々の心の状態が安定しているということであろう。いくら社会的な秩序が保たれていても、その人の心が乱れていたら、それは平安な状態とは言えない。人間は自らの心の平安を欲するから社会秩序を必要とするとも言える。社会秩序が乱れれば、人間の心が平安であるはずがないから。つまり、幸福とは、心の平安が保たれている状態を表す。


「ホラーの目的は、タブーの世界に足を踏み入れた人間が恐ろしい目にあうところを見せて、われわれにふつうの状態のありがたみを再認識させることにある」(「死の舞踏」福武文庫)


これは“キング・オブ・ホラー”の異名を持つ小説家のスティーヴン・キングの著作の中にあった一節だが、なるほどと感心した一節である。このように考えると、人間がなぜホラー(恐怖)を好むかよくわかると思うからである。人間がホラーを好むのは、ホラーを体験することによって、「ふつうの状態のありがたみ」を確認できるからである。


では、なぜホラーを体験すると「ふつうの状態のありがたみ」が確認できるかと言うと、「ふつうの状態」はずっと続くとそのありがたみがわからなくなるからである。普通に起床して、普通に食事して、普通に歩き、普通に仕事して、普通に眠ることか実はものすごく幸せであることをわたしたちはしばしば忘れる。そればかりかそんな状態を退屈に感じて刺激を求めさえする。ホラー体験はそんな退屈な日常生活に刺激を与え、心を活性化する機能がある。


大雑把に括れば、ホラーとは死である。ホラーは人間を死に直面させることによって、自らの生を再認識させることができるわけである。「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉があるが、ホラーとは原則的にその言葉の実践であると思う。片方では心の平安を求めながら、片方ではホラー=心の恐怖を求める人間の心は摩訶不思議ではあるが、ホラー小説やホラー映画の社会的な役割とは、社会秩序の破壊ではなく、その恐怖を通して、社会秩序のありがたみを再認識させる点である。


世界中を混乱に陥れたコロナ禍は、わたしたちにとって災難以外の何物でもなかったが、それを経験したわたしたちは、「ふつうの状態のありがたみ」を前よりも痛切に感じたのは事実であろう。現実の恐怖もフィクションと同じく人間の心を活性化させる。


✵「エクソシスト」の一場面。(「Movie Walker」より)