DVDで「ラスト・ハウス・オン・ザ・レフト-鮮血の美学-」(2009年)を見る。「鮮血の美学」(1972年)のリメイク作品。スティーヴン・キングの「死の舞踏」の新装版(ちくま文庫)を読んでいたら、付け加えられた文章で本作への言及があり、興味を持ち一見に及ぶ。タイトルは「左の道の行き止まりの家」といったような意味らしいが、内容を想像しにくい。「メアリーの家」くらいの意訳した邦題がほしい。


休暇で湖畔の別荘を訪れたコリンウッド家。17歳の一人娘のメアリーは友人とともに外出した際、逃亡中の残忍な犯罪者一家と遭遇し、拉致されてしまう。そして、友人は殺害され、メアリーも重傷を負いながら打ち捨てられる。折しも嵐に見舞われ行き場がなくなった犯罪者一家が、助けを求めて訪れたのはメアリーの両親がいる別荘だった。


オリジナルに当たる「鮮血の美学」は未見だが、「後味が悪すぎる49本の映画」(宮岡太郎著/彩図社)という本に紹介されていて興味を持っていた。ある日、たまたま来訪した人間がとんでもないヤツだったという設定の映画で、わたしが真っ先に思い出すのは、「メイクアップ」(1977年)をリメイクした「ノック・ノック」(2015年)やアリエル・ドーフマンの戯曲を映画化した「死と処女」(1994年)だが、本作はその直接性という点で最も際立つ映画であると思う。直接性とは、加害者と被害者家族の対面の仕方のことである。


加害者家族と被害者家族の直接対決という点では、近年、「対峙」(2021年)という例があるが、こちらはそれに輪をかけて生々しい。愛娘をレイプして大きな傷を負わせた加害者本人と被害者の両親を犯行の直後に一つの場所で対面させ、両者に殺し合いをさせるのだから。見ようによれば、ただグロテスクな復讐ショーになりかねない設定であるにもかかわらず本作がよいのは、その対面のさせ方に説得力がある点である。本来、決して出会わない両者が必然的に出会う状況をきちんと作り上げているのだ。すなわち、すばらしい劇的状況を創作し得ている。


また、来訪者の正体に気づいた娘の母親が、何も知らない加害者と応対する際のやり取りのサスペンスもハラハラする。加害者一味の一人である少年を絶対悪にせず、むしろ加害者たちと対立させるポジションに置いた点も面白く、被害者家族と加害者一家の全面対決に微妙な彩りを与えている。


惜しむらくは蛇足的に付け加えられたとしか思えないラストシーンで、このシークエンスがあることで、映画はリアリティがある復讐物語からチープなホラー映画のようになってしまったと感じる。娘の父親(医者)は生き残った加害者にある物を使って拷問をする場面である。


✵同作。(「Amazon.co.jp」より)