映画の脚本家として有名な橋本忍さんに「複眼の映像−私と黒澤明」(文春文庫)というタイトルの本がある。橋本さんの自伝的なエピソードと脚本術が紹介されている大変面白い本である。橋本さんが数多く脚本を提供した黒澤明監督との共同脚本の制作過程も興味深い。ところで、橋本さんはこの本のタイトルをなぜ「複眼の映像」としたのだろう? その理由は本に書かれていない。
●複眼
1 節足動物などにみられる、多数の小さな個眼が束状に集まった目。物の形や動きの識別ができ、昆虫では紫外線や偏光も識別。⇔単眼。
2 対象をいろいろの見地から見ること。
(「デジタル大辞泉」より)
言うまでもなく橋本さんは2の意味でこの言葉を使っているはずである。一人の人間、一つの出来事を多彩な視点で捉えること。それが脚本家・橋本忍の脚本に対する基本的なスタンスである、と。では、それはいったいどんなスタンスなのだろう? わたしは次のように考えた。
この世の中に完全な悪人は存在しない。どんなにひどい人間もある局面において善行をなす可能性はある。逆にこの世の中に完全な善人も存在しない。どんなに高潔な人間もある局面において悪行をなす可能性がある。この世に完全な美人は存在しない。どんな美人もある局面においては醜い姿をさらす可能性はある。逆にこの世に完全な醜い人も存在しない。どんなに醜い人もある局面においては美しく見える可能性はある。そのような世界観を橋本さんは「複眼」と呼んだのではないか?
思うに人間の成熟とは、このような「複眼」を身につけていくことではないかと思い至る。悪なるものの中に善を、善なるものの中の悪を、美なるものの中の醜を、醜なるもののな中の美を発見することができるようになること。若い時は単眼で世界を捉え易い。ゆえに幼い人間にとって世界は平面である。しかし、大人になり複眼で世界を見ることができれば、世界は平面ではなく立体として立ち現れる。
翻って、悪人の善行を、善人の悪行を、美人の醜行を、醜者の美行を描くのがドラマであるとは言えまいか。もしも「橋本イズム」というものがあるとすれば、それは「脚本家はそういう視点で世界を捉えるべし!」という精神がそれに当たるのではないか? だとするなら、わたしはその精神に共感する。