韓国旅行中には様々な韓国料理を食べた。どれもこれもわたしは美味しくいただいたが、帰国したその夜、わたしが真っ先に食べたのは立ち食いの天ぷら蕎麦だった。翌日の朝はサバの焼き魚と味噌󠄀汁。渡韓中、特に日本食が恋しかったわけではないが、自分のそのような行動を省みると、わたしはやはり日本人であることを再認識する。何日かぶりに食べる日本蕎麦と醤油仕立ての汁はからだに染み込むような快い感覚があった。


和食は韓国料理に比べると、あっさりしたものが多いように思うが、どうか。寿司にせよ、蕎麦にせよ、天ぷらにせよ、うどんにせよ、みな「こってり」と言うより「あっさり」した味わいが特徴である。そして、それは韓国料理だけでなく中華料理やイタリア料理などと比べても同じである。他国の料理に比べて和食は食感がしつこくないのである。もちろん和食の中にも鰻の蒲焼のような「こってり」した料理もあるが、他国のそれに比べれば穏やかなものである。


何が言いたいかと言うと、わたしのアイデンティティ(自己同一性)を形作る大きな要因の一つに和食を好む体質があることを認めないわけにはいかないということである。その国の人間であるという最大の根拠は、その国の言葉を話すということだとわたしは考えるが、その国の料理を好むという点も大きな根拠になっているのではないかと思う。その国の料理=食材とその調理方法がその国の人間がその国の人間である証明である。言語がその国の人間の精神的なアイデンティティだとするなら、食文化はその国の人間の肉体的なアイデンティティである。


また、食文化の在り方は、その国の人々の精神にも大きな影響を与えると思う。肉体と精神は不可分なものであるとするなら、何をどのように食べるかという問題と何をどのように考えるかという問題は繋がっているとわたしは考えるからである。だから、わたしがいくら韓国料理を美味しいと感じても、わたしのからだが最終的に求めるのは、キムチやキンパやチゲではなく、お新香や握り飯や味噌汁であるにちがいない。なぜなら、そういう食材をそのように調理したものを食べて、わたしは現在の肉体を得たからである。


「わたしは日本人である」という認識は、その人間のアイデンティティの根幹を形成していると思うが、日本人の日本人たる大きな根拠の一つは和食を好むという点だと思う。


✵和食。(「Kimini」より)