瓦礫と書いて「がれき」と読む。普段、普通に暮らしている限り、瓦礫を目にすることは滅多にない。東京の街は秩序正しく整備されていて、仮にビルの取り壊し作業が行われていても、現場は防塵のために鉄製の壁やシートで覆い隠されているから目で見ることはできないことが多い。しかし、ごく稀に解体されたビルの取り壊しの様子を見る機会もある。


✵ビルの解体工事現場。

紹介した写真は、わたしの自宅近くで行なわているビルの解体中の現場である。何台かの重機が瓦礫となったコンクリートの破片を集めている。見慣れない風景のせいか、その様はわたしの目を釘付けにする。普段、見慣れたコンクリート製のビルは、解体されるとこのようになるという事実を目の当たりにして驚くわけである。その様子は「壮観」と言ってよい非日常性に満ちている。

現実にこのような解体され瓦礫の山と化した建物を垣間見る機会は滅多にないが、戦争映画の中ではしばしば見受けられる光景である。「戦場のピアニスト」(2002年)では廃墟と化したワルシャワの街を主人公が呆然と歩く場面、「フルメタル・ジャケット」では謎のスナイパーにアメリカ兵が襲われる場面、「プライベート・ライアン」(1998年)ではアメリカ軍がドイツ軍を待ち伏せる場面など。戦争によって破壊された街はまさに街そのものが解体現場の様相を呈している。つまり、そこは非日常性が集約した世界なのである。

わたしがこういうビルの解体現場を興味深く見てしまうのは、秩序正しく建設された建物も、破壊されるとこのような無残な姿になるという事実を突きつけられるからである。それは、例えば、列車に飛び込み、バラバラに解体された自殺者の轢死体を目の当たりにした時のそれと同じかもしれない。普段は活発に働き、笑ったり泣いたりしている人間という生き物も、解体されればこのような恐ろしい姿になることを連想させるのである。

2001年9月11日、世界貿易センタービルも瓦礫の山と化した。2011年3月11日、震災の被害を被った地域もそのような風景を生み出した。こういう風景は人間の心をどこか殺伐とさせる。それは「戦争」という人間が行う最も愚かな行為の象徴をその風景に見出すからにちがいない。もちろん、人間の心は複雑で、こういう廃墟に得も言われぬ美を見出す人もいることをわたしは知っているが。その気持ちはわたしもわかる。