2023年9月11日のブログで、わたしはアメリカの同時多発テロに触れて「歴史と想像力」というタイトルで以下のような文章を書いている。 


《アメリカの同時多発テロをリアルタイムに目撃していなくても、その事件がどういう事件だったかを理解する時、豊かな想像力と貧しい想像力では、その認知の仕方が違うように思う。つまり、想像力を使うのは、何も自由奔放なフィクションを創造する時だけではないのである。貿易センタービルに飛行機が突入し、ビルが倒壊するとどんな結果を生むのか?》


先日、一見に及んだ「関心領域」の感想は以下のようなものである。


《本作を見て強い恐怖感を感じるかどうかは、観客の歴史的な事実に関する知識と想像力にかかっている。だから、ナチス・ドイツによるユダヤ人殲滅計画を知らない人が見ると、淡々としたドイツ人の日常だけを描いた退屈な映画に見えるかもしれない》


偉そうにそんなことを書いているが、わたしがナチス・ドイツによるユダヤ人殲滅計画(ホロコースト)に関する歴史的な事実をどこまで正確に知っているかと言うと非常に心もとない。わたしはナチス・ドイツの研究者ではないからである。しかし、わたしは「夜と霧」(1956年)や「シンドラーのリスト」(1993年)を見ているし、書物を通してたくさんのユダヤ人が理不尽な理由で大量に殺害されたことは知っている。だから「関心領域」を面白いと思えるわけである。


何が言いたいかと言うと、想像力とは、それのみで成立するものではなく、事実をベースに発動されるものであるということである。いや、事実をベースにしない想像力もあるにはあるが、それは空想力や妄想力といった種類のものである。想像力が真に想像力たりえるのは、まず事実がどのようなものだったのかをきちんと認識することから始まるのではないか? そして、歴史を学ぶ重要性とは、まさにその文脈にあるのではないか?


わたしが洋の東西を問わず「時代劇」と呼ばれる分野に関心が薄いのは、わたし自身が遠い過去の時代の実相を知ろうという動機に乏しいからであり、わたしの側にその意欲があり、その時代の歴史的な事実をきちんと知れば、わたしの想像力はもっと豊かに発動するのだと思う。「面白い」とは想像力が刺激されることであるとわたしは考えるが、「面白い」ことはそれを鑑賞する観客側の歴史への関心と知識に比例している。まあ、そう考えてもすべての歴史的な事実を正確に知るのは至難の技だが。


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