《愛知県春日井市で10日、2人乗りの原付バイクと乗用車がぶつかり原付の男女2人が死傷した事故で、乗用車を運転していた女が身代わりを立てて飲酒運転による事故を免れようとしたとして逮捕されました》 


こんな記事をネット上のニュースで見かけた。「死傷」とあるからバイクに乗っていた男女(大学生らしい)のどちらかは死亡したということだから深刻な事故である。しかし、わたしの関心は事故の重大さより「身代わり」という言葉の方にいってしまう。


人間には目にするとビビッと反応してしまう言葉があるように思うが、どうか。例えば、妻子持ちの男と交際している女の人は「愛人」という言葉に、サディストの人は「制圧」という言葉に、裁判官は「公正」という言葉に、脱税している人は「隠蔽」という言葉に、普通の人より敏感に反応するのではないか? わたしにとってのそういう言葉の一つが「身代わり」である。わたしは「身代わり」という言葉を見ると、自分の瞳孔がちょっと開くような感覚を持つ。


身代わりとは、自分以外の誰かの人生を演じるということである。世の中にはいろんな身代わりがあるだろうが、この事故の場合、交通事故を起こした運転手の女性が酒を飲んでいたことから、その事実が発覚することを恐れ、知人の男性に運転手の身代わりを引き受けてもらったらしい。女性の気持ちもわからなくはない。しかし、わたしの興味は身代わりを依頼した女性よりも身代わりを頼まれ、真実を隠すことになった男性の方へいく。どんな交換条件があったのかわからないが、身代わりの男性の胸中を察すると、ムラムラと好奇心が膨らむのである。大げさに言えば、その境遇に対して欲情してしまうのである。


わたしが「身代わり」という言葉に敏感に反応してしまうのは、たぶんわたしが演劇人だからである。演劇人とは何かを定義するのは難しいが、もしもそれを「虚に実を与えることを生業とした人である」と考えるなら、身代わりを引き受けた人間と演劇人の境遇は限りなく近いものである。両者に共通するのは、その嘘を真実たらしめるべく多大な努力をする点である。つまり、誰かの身代わりを引き受ける人の努力は、俳優や演出家が行う努力とほとんど同じ情熱から発するのである。


✵飲酒運転。(「チューリッヒ保険会社」より)