「二日経っての今日、一月一日は日曜日で、日本では祝日、穏やかな晴れの日です」


あなたが日本人なら問題なくスラスラと読めるこの文章が、日本語を学ぶ外国人には相当に難しい文章であるということをTikTokの動画で知った。最初はどこが難しいのかよくわからなかったが、よくよく見ると、文章中で使われている「日」という漢字の読み方の多彩さに原因がある。フツカ、キョウ、ツイタチ、ニチヨウ、ビ、ニホン、シュクジツ、ハレノヒと実に八通りの読み方がこの文章に含まれているのてある。外国人が日本語の複雑さに絶望し、「オーマイガー!」と叫び、頭をかきむしりながらその場から逃げ出したくなる気持ちもよくわかる。


つまり、日本語は世界でも有数の複雑な言語であるということである。一つの漢字にいく通りの読み方があり、すべて違う意味を持っているのだから。もしもわたしが外国人なら、こんな複雑な言語を操る日本人に驚嘆するにちがいない。そして、自分がその言語を流暢にしゃべる困難を想像し、日本語を学ぶことを断念するにちがいない。その絶望感は、眼の前に立ちはだかる巨大な岩壁を眼の前にして、それを登らなければならないクライマーのような気分であると思う。


かつてコラムニストの山本夏彦氏は「国とは母国語のことである」と言った。もしそうなら、わたしたちが住むこの日本という国は、とても豊かな国であると言わなけばならない。一つ漢字に八通りの読み方がある言語は、世界広しと言えども滅多にないと思うからである。いや、八通りだけを誇らしげに語るのもおかしな話かもしれない。しかし、山本氏の見解に乗じて言わせてもらうなら、「世界とはボキャブラリーの多さのことである」とわたしは思う。どれだけたくさんの言葉を持ち、それを使いこなすことができるのか? それがその国(=国民の心)の豊かさであるとわたしは思うのである。


わたしが劇作家という言葉を使って物語を構築する仕事を選んだのも、根本的には豊かな人生を送るためには、お金よりも先に言語の豊かさを獲得したいと望んだからかもしれない。豊かな言語生活を送ることこそ、最も豊かな人生であるとわたしは夢想するのである。その人がどんな言葉で物事を語るか? まさに言葉は目には見えない宝石である。そんな宝石を身につける上で、一つの漢字に八通りの読み方がある日本語はすばらしい言語であると再認識する。


✳宝石。(「MARUKA」より)