アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」(1960年)は、時代を超えた名作と呼んでいい映画だと思う。パトリシア・ハイスミスの原作をルネ・クレマン監督が映画化したサスペンス映画。本作は「リプリー」(1999年)というタイトルでリメイクされていて、こちらの主演はマット・デイモンである。


ところで、わたしはかつて劇映画の意表を突いたキャスティングの例として、「ジェットローラー・コースター」(1977年)の爆弾犯人のティモシー・ボトムズや「フレンチ・コネクション」(1971年)の麻薬の密売人のフェルナンド・レイや「ダーティハリー」(1971年)の射殺魔のアンディ・ロビンソンなどを取り上げたことがある。これらは悪役に関するキャスティングだが、あえて悪党面をした俳優を配役していない点が特徴的であり、そのギャップが得も言われぬリアリティを醸し出した例である。


その文脈において、「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンもすぐれたキャスティングの例として特筆すべき一編である。記憶で書くが、パトリア・ハイスミスの原作におけるトム・リプリーは容姿はよくない若者だったはずで、そういう意味ではアラン・ドロンよりもマット・デイモンの方が適役に思える。しかし、ルネ・クレマン監督はトム役に美貌のアラン・ドロンを配役したわけである。トムが殺害する金持ちの友人フィリップ役はモーリス・ロネである。モーリス・ロネはどちらかと言うと凡庸な顔立ちの俳優である。このキャスティングにより、美貌だが金がないトムと凡庸だが金持ちのフィリップの対比がハッキリする。


対して、アンソニー・ミンゲラ監督の「リプリー」の金持ちの友人ディッキー役は美貌のジュード・ロウである。これはこれで明快なコントラストを作り出しているが、キャスティングの妙という意味で「太陽がいっぱい」が一枚上手であることは明白である。「太陽がいっぱい」において、なぜこういうキャスティングが実現したのかわたしは詳しく知らないが、もしかしたら「スターのドロンを何が何でも主人公にしろ!」というプロデューサーの商業的な判断による配役だったのかもしれない。だとするなら、怪我の功名とはまさにこういうことではないかと思う。


こんなことを書いているのは、最近、「リプリー」を再見したせいだが、改めて「太陽がいっぱい」はすばらしい映画であると再認識する。そして、作曲家ニーノ・ロータの偉大さも。


✳アラン・ドロン。(「映画.com」より)