沢木耕太郎さんが書いた『世界は「使われなかった人生」であふれてる』(幻冬舎文庫)を再読する。沢木さんによる映画をめぐる論評集。改めてこの人の文章の清潔感に深く感心する。こういう文章を書ける人だからこそ沢木耕太郎は「ニュージャーナリズムの旗手」たり得たにちがいない。その簡潔さと文章のリズム、独自の視点、表現の説得力、どれをとってもすばらしく、つくづくとこういう文章を書きたいものだと思う。


著者は「旅する女/シャーリー・バレタイン」(1989年)という映画に触れながら、人間の分岐点についての論考をしていて、誰でも「使われなかった人生」が存在すると説く。まったくその通りで、もしもあの時、別の道を選んでいたら、その人には今とはまったく違う別の人生があったにちがいない。その例として著者は映画評論家の淀川長治さんと女優の吉永小百合さんの「使われなかった人生」について言及している。それぞれの分野で大きな功績を残したお二人であるが、もしも今の仕事に就いていなかったら、お二人とも教師になっていたというエピソードが本書の冒頭で紹介される。


かく言うわたしにも「使われなかった人生」があり、前にも書いたことがあるので繰り返さないが、それはデザイナーのような仕事である。著者の沢木さんの場合は「丸の内に本社を構える大企業」の社員である。22歳の沢木耕太郎は、その雨の日の朝、入社が決まっていたその会社へ向かうことをいきなり放棄するのである。その結果、沢木耕太郎はノンフィクションライターとしての道を歩き始め、今日に至るわけである。


安定した会社員ではなくノンフィクションライターという茨の道を進むことを決意する若き日の沢木耕太郎の姿はドラマチックである。それをそのように感じるのは、ノンフィクションライターとしてすぐれた作品をいくつもものにした現在の沢木耕太郎が存在するからか。そんな著者と比べるのもおこがましいが、わたしにも「雨の日の朝」は存在したにちがいない。いや、淀川長治にも吉永小百合にも「雨の日の朝」は存在したにちがいない。決断は必ずしも「雨の日の朝」でなくてもよいがその日は雨が降っていて主人公は傘を持っているべきである。なぜなら主人公はポイと傘を捨て、ずぶ濡れになっても平気なのだから。彼は踵を返して違う道を行く。


こんな回想をするのはわたしがすでに回想する過去を持っている人間だからだが、まだ道を決めかねている若いアナタにもいずれ「雨の日の朝」は必ずやって来る。そして、時間が経ち、ある日、「使われなかった人生」がアナタの目の前に忽然と姿を現す。


✴雨の日の朝。(「ぱくたそ」より)