わたしがしばしば通うコーヒーショップに興味をそそられる人物がいる。わたし自身は気づかなかったが、そのコーヒーショップの常連のMさんからその事実を教えてもらったのである。その人は中年の女性でそのコーヒーショップで書き物をしている。彼女が何者かまったくわからない。彼女は書き物をしながらいつも泣いている。


こういう事実を知った時に人間の想像力は発動する。なぜ発動するかと言うと、そこには大きな謎が存在するからである。この場合、「女はなぜ泣いているのか?」という謎である。わたしの考察は以下の通りである。


①彼女は物書きである。小説家か脚本家。彼女はコーヒーショップで仕事をしていて、自分が作り出した作品世界に没入し、その内容に感動して泣いているのである。


②彼女は最近、最愛の夫を不慮の事故か病気で亡くした未亡人である。彼女はその夫との思い出を文章にすべくコーヒーショップで書き物をする。そして、夫との思い出を思い出し泣いているのである。


③彼女は自死を決意した自殺志願者である。彼女は自死に辺り、自らの人生を振り返り、その思い出をコーヒーショップで文章にしている。走馬燈のように駆け巡る自分の人生の思い出の数々。そして、泣いているのである。


わたしが想像しうる謎の答えはさしあたり以上のようなものだが、どれもこれも正解にはほど遠いようにも思う。正解はもっと意外性に富んだもののように思うからである。当の彼女に「なぜ泣いているんですか?」と直接的に聞く勇気は今のところないが、聞けばあっと驚く答えが帰ってくるにちがいない。


ところで、「面白い」とは「想像力を刺激される」ことの別名だとわたしは考えるのだが、その文脈で言えば、わたしにとって「泣いている女」の存在は非常に面白いということである。事が事だけに「面白い」と言うと語弊はあるが、様々な想像をさせるのは事実であり、その原因はそこにはわたしが解明できない謎があるからである。


そして、人間が強い関心を持つあらゆる出来事も同じような構造を持っていると思い至る。わたしが強い興味を持つ三億円事件や世田谷一家殺人事件のような未解決事件は元より、小は身近な人間の恋愛模様や不可解な奇行から大は宇宙の神秘まで、つまるところそこに謎が存在し、その謎が人間の想像力を誘発するから人間はその出来事に引き寄せられるのである。ミステリー小説とは、そういう人間の特性を利用した文学形式であろうか。


*泣いている女。(「パブリックドメインQ」より)