人間は長い人生の中で何度か重大な決断を迫られる時がある。一般的には、それは進学や就職、結婚や出産など、そういう局面において迫られるものだろう。右か左か? そして、そういう重大な決断を迫られた結果、人間は「腹を括(くく)る」ことを余儀なくされる。「腹を括る」とは、「どんな結果になってもたじろがないように意を決する。覚悟をきめる」ことだが、そういう決断を「頭」でも「胸」でもなく、ましてや「尻」でもなく「腹」という言葉でそれを表現する点が日本独特である。


そんなことを書いているわたし自身、今までに何度かそのような局面があったと思う。最大のそれは二十代の頃、演劇の道を選ぶか否かという局面だったように思うが、実を言うとわたしは大きな葛藤の末にそれを決断したという記憶がない。こう言うとナンだが、わたしの目には演劇の道しか見えていなかった。今思い返すと「何と無謀な!」と思わないでもないが、当時、わたしにはほとんど迷いがなかったのである。「狂犬の目に真っ直ぐな道ばかり」という言葉があるが、ある意味でわたしは狂犬であり、他の道を見る余裕など皆無であった。


それがどんな不利益を被ることになろうとも、わたしは腹を括っていたわけである。それはそれで非常に潔いことだと思うが、普通は演劇の道を選ぶことによって閉ざされる別の道への未練があってもよさそうである。腹を括って一つの道を選択するということは、同時に他のすべての可能性を捨て去ることである。わたしは音楽家にもなれたし、絵描きにもなれたし、スポーツ選手にもなれたし、警察官にもなれたし、医者にもなれたはずだが、その可能性を捨て去り、演劇の道を選んだわけである。


それは結婚という局面も同様である。一人の伴侶を選ぶということは、もしかしたら自分をもっと幸福にしてくれる他の人間を排除するということと同義である。決断するのは相当に難しい。年齢が若ければ若いほど迷いは大きいように思う。ブルゾンちえみではないが、まさに「35億!」である。しかし、そんな迷いを断ち切って人間は誰かを選ぶ。腹を括るわけである。


仕事にせよ結婚にせよ、腹を括って行ったその選択が正しかったか否か? その結論は、その人の生命が絶たれるその瞬間までわからないと思う。しかし、わたしに関して言わせてもらえば、もう若くないわたしは自分の選択にまったく後悔していない。好きなことだけを優先して生きてきた、いや、好きなことを優先できる恵まれた環境があったと言うべきか。少なくともわたしは黒澤明監督の「生きる」の主人公・渡辺勘治(志村喬)のように生きてはこなかった。ゆえに後悔はない。


✳久しぶりの自撮り。