ずいぶん昔のことだが、わたしのごく身近にいたある友人から「君の書く芝居にはいいヤツと悪いヤツは出てくるけど、嫌なヤツが出てこないよなあ」と言われたことがある。わたし自身にはそういう自覚がまったくなかったので、盲点を突かれたように思いハッとした。わたしはこの世に生きる様々な種類の人間の様々な性格をきちんと描き分けるのがその作家の力量だと思っているので、その友人の指摘は痛いものだった。


しかし、よくよく考えるに、わたしが書く戯曲の中に「嫌なヤツ」がいないことを指摘したその友人は、彼自身が相当に「嫌なヤツ」だったのかもしれないと思い至る。彼にとって、わたしの戯曲の中にいる登場人物たちに自分の姿を見出せないから不満を持ったのである。逆にわたしが「嫌なヤツ」を書くのが苦手なのは、わたし自身の中に「嫌なヤツ」がハッキリと存在しないからではないか? あるいは、自分の中にいる「嫌なヤツ」に興味がないからではないか?


作品に登場する人物たちは、根本的にはそれを書いた作者の人格の一部の投影であると思う。作者は自分の中にある様々な可能性としての「もう一人の自分」に出会いながら台詞を書く。件(くだん)の友人の指摘が正しいとすれば、それはわたしの作家としての引き出しの中に「嫌なヤツ」のストックがないか、乏しいということになる。しかし、「いいヤツ」と「悪いヤツ」のストックはハッキリと存在するから、そういう人物を書くことができるとして言えるのではないか?


つまり、わたしは善悪に関する人物を書くのは得意だが、その中間にいる「普通のヤツ」を書くのは不得意であるということである。もしそうだとすれば、自分の作家としての力量のなさを恥じるしかないが、この世に生きるすべての人間の気持ちをきちんと書ける作家はなかなかいないとも思う。翻って、「嫌なヤツ」が書ける作家は、その作家自身が俗世間に揉まれ、善悪とは違うレベルにおいて、欲にまみれた生身の人間たちと深く付き合うことを厭わない人であるにちがいない。


*「獄窓の雪」の登場人物。