それがどんな瞬間だったか忘れたが、先日、妻からふいに「あなたも歳を取ったわね」と言われてドキッとした。妻がわたしの何を見てそのように言ったのかは気になるが、「どこが?」と問い返しはせず無言で受け流した。そりゃそうだ。わたしはすでに六十代の坂を上っている身の上である。主観的にはまったく歳を取った気はしていないのだが、容姿は若い頃のようにはいかない。


だからと言って食事を制限しようとも思わないし、髪の毛を黒く染めようとも思わないし、腹筋運動に精を出そうとも思わない。わたしがそんな努力をしないのは、わたしが男で、しかも表舞台に出る仕事をしていないからで、年齢に逆らっても仕方ないと心のどこかで諦めているせいかもしれない。しかし、女性はそのへんに関しては男性より断然に努力を怠らないように思う。女性が自らの容姿を美しく維持するために使う時間とお金は男性の比ではない気がする。女たちは自らの年齢と戦う気概が男性よりも断然に強い。


そんなことを考えていたら、ずっと昔、ビリー・ジョエルが「あるがままの君が好きだ」と歌っていたのを思い出した。名曲として名高い「素顔のままで(Just the way you aer)」である。これはこれで男性の女性への真実の思いを歌っていると思うものの、年齢に逆らって自らの容姿を美しく保とうとする女性たちからすれば「お気楽なこと言ってんじゃねえよ!」と怒られてしまうかもしれない。「あるがままで生きてければ苦労はねえんだよ!」と。これはこれでこちらの意見も理解できる。「素顔のままで」がもしも「スッピン」というタイトルなら絶対に売れなかったと思う。


和彦「少なくとも、ぼくは変らなければならないと思った。あるがままに、自然に生きるのではなく、無理をして自分を越えようとする人間の魅力を、忘れたくないと思った」


こちらは山田太一作のテレビドラマ「早春スケッチブック」の中で浪人生の和彦(鶴見辰吾)が言う台詞である。このドラマでは「あるがままに生きること」への痛烈な批判が、和彦に大きな影響を与える中年男・竜彦(山﨑努)の口から発せられる。当時、劇中の若者と同い年だったわたしは、和彦同様、竜彦から大きな影響を受けたように思うが、自分の容姿に関してはこの教えを実践できなかったようである。


*ビリー・ジョエルのレコード。(「Re minder」より)