何年か前に流行語大賞にもなった「忖度(そんたく)」という言葉は、「他人の心中をおしはかること」を意味する。意味自体に悪いイメージはないが、2017年の「森友学園への国有地払い下げ問題」を通してこの言葉は一般化したせいもあり、「真実をハッキリさせずに有耶無耶にする」というニュアンスを持つようになった。そんなことをほじくり返しているのは、わたしには無縁と思っていたこの言葉も、そうでもないことに気づいたからである。


わたしは、時折、このブログに鑑賞した映画の感想を書くことがあるが、芝居の感想は書かないことにしている。それはわたしがレストランのシェフだとして、同業者の別のレストランの料理の味をあれこれ文句を言うのは筋違いのように思うからである。映画の感想を書くのは、同じレストランでも扱う料理がまったく別ものという認識に因る。まあ、勝手な言い分かもしれないが、わたしの中ではそのように区別して、映画の感想は書くが芝居の感想は書かない(例外はある)のである。下手に芝居の感想を正直に書いて、関係者をいたずらに敵に回したくもないという気持ちもある。


しかし、そのように考えて映画の感想を書いているとは言え、それを書く上で忖度がないかと言うと、そんなことはまったくない。それがわたしの生活圏から遠い国で作られた映画になればなるほど、すなわち、その映画が外国映画であれば忖度の度合いは低い。知らない人には平気で冷徹になれる。しかし、日本映画の感想となると、わたしの感想の筆法は鈍る。もしかしたらその映画を作ったのはわたしの知り合いかもしれないし、友人の知り合いかもしれないからである。だから下手に酷評はできなくなる。そこに忖度の気持ちが働く。


つまり、忖度とは、閉鎖的な共同体において顕著に働く力である。「嫌なやつと思われたくない」とか「このような指摘をすると困るだろうな」とか「これは黙っておいた方がいい」とかそのような気持ちから真実を有耶無耶にしようとする。下手に真実を暴露すれば、最終的には当事者たちの経済的な損失を招くおそれもある。つまるところ、日本の政治家たちの問題の根幹は、利権をめぐる忖度が政界という閉鎖的な共同体内部だけで行われるからだと思う。


学校でいじめによる自殺事件が起こると、学校の人間、被害者家族、加害者家族ではなく、それらの立場の人とはまったく無関係な「第三者委員会」が作られ真実を調査する場合があるが、こういう調査機関の存在は、閉鎖的な共同体を外部から冷徹な態度で調査する上で必要不可欠なものである。そこでは忖度がない態度で真実を指摘して追求できるのである。


*日本の政治家たち。(「クーリエ・ジャポン」より)