先月の終わりに上演した「八月のシャハラザード」は、あの世に旅立つことになった貧乏役者と強奪犯があの世への案内人の取り計らいで現世にとどまる猶予を与えられ、それぞれの目的を遂げようとする物語である。作者本人が言うのも恥ずかしいが、強奪犯を挟んで貧乏役者と恋人が抱き合うクライマックスは感動的で、涙なくしては見ていられなかった。しかし、毎日、同じ場面で同じように感動するわけでもない。


日によって感動の深さが違うのは、その場面を演じる俳優の調子のせいもあるが、どちらかと言うと、その場面を見るわたし側の体調の問題が大きいように思う。舞台でも映画でも小説でもよいが、それに接して大きな感動を得るためには、それを見る側の体調が大きく関わっている。こちら側の体調が整っていないと本当にすばらしい感動を体験することはできないのである。俳優の演技がいくらすばらしくても、それを見る観客側が風邪を引いていたり、お腹が痛かったりしたらその場面をきちんと受け取ることはできないのは言うまでもない。つまり、観劇で最も重要なのは、観客側の健康であり体調である。


さすがに最近はなくなったが、若い頃、長期間に渡って公演していると、前夜に深酒して意識が朦朧としたままマチネ(昼間)の公演を見るなどということがよくあった。そういう時は、舞台の内容がまるでこちら側に入ってこない。当たり前である。舞台を見続ける集中力がこちら側にないからである。その集中力を保証してくれているのは、観客側の健康であり体調である。


そのように考えると、わたしがかつて深い感銘を受けた作品の数々は、わたしの体調が非常によい時に出会うことができたということである。こちら側の体調が作品を繊細に受け取る準備ができていたから、その感銘はより深いものになったと言える。逆に言えば、どんなすばらしい作品も、こちら側の体調が悪い時に接したばかりに、まったく面白さを感じない場合もあるということである。思い当たる節はある。そういう不幸な出会いは作品だけでなく、初めて出会う人間についても言える。問題はこちら側の体調にあるのである。


*「八月のシャハラザード」の一場面。(撮影/原敬介)