十代の頃、わたしの最も重要な映画体験の一つは「ダーティハリー」(1971年)を見たことである。(ロードショー公開ではなく、名画座で見た)ハリー・キャラハン刑事はわたしの永遠のヒーローの一人であり、それを演じたクリント・イーストウッドは今も敬愛する映画人である。この刑事アクション映画をその後も折に触れて見返している。
初めは主人公のキャラハン刑事の動的なアクションにしか目に行かなかった。それは白昼のサンフランシスコの市街戦であり、電飾をバリバリと壊しながらの連続射殺犯との派手な銃撃戦であり、野球のスタジアムでの追撃であり、バスジャックをした犯人との追跡劇である。しかし、大人になって見返す本作は案外と社会性があるテーマを描いていることに気づく。それは「ミランダ警告」をめぐる司法制度の矛盾を描いている点である。
●ミランダ警告
アメリカ合衆国において、米国連邦最高裁が確立した刑事司法手続の一つで、告知が被疑者に対してされていない状態での供述(自白)は、公判で証拠として用いることができないとする原則である。警官が被疑者に伝えなければならない重要な文言は以下の通り。①「あなたには黙秘権がある」②「あなたの供述は法廷で不利な証拠として用いられる場合がある」③「あなたは弁護士の立ち会いを求める権利がある」
本作では、キャラハン刑事がこの警告をしないで犯人を逮捕したことにより、被疑者は検察官の命令で釈放されてしまうという事態が描かれるのである。誰がどう見ても犯人である人間を逮捕手続きの不備により捕まえることができないジレンマ。こういうディテールが本作をよりドラマチックなアクション映画にしているのは言うまでもない。つまり、本作から派手なアクションを取り払うと、バリバリの社会派映画になるのである。
ものの本によれば、「ダーティハリー」の当初のタイトルは「死んだ権利」というもので、もっと社会派よりの内容だったという。(町山智浩著「〈映画の見方〉がわかる本」洋泉社)そんな第一稿にアクションをふんだんに盛り込み、エンターテイメント活劇にしたのが公開された「ダーティハリー」なのである。そういう意味では、本作は「密殺集団」(1983年)に通じるような司法制度の矛盾を描いた先駆的な一作と言える。
もしも本作がキャラハン刑事が犯人を追い詰めて撃退するだけの映画なら、その味わいはずいぶんと薄味になったにちがいない。翻って、すぐれた映画は本作がそうであるように物語の中盤でこういう「ひねり」がよく利いていると改めて思う。