演劇の公演活動を軸としながらわたしは専門学校や大学で演劇の講師をしている。そんな環境があるがゆえに公演がある際には学生たちを観劇に誘うことになるわけだが、昔と今ではまったく誘い方が違う。以下は時代ごとのわたしの学生への勧誘の態度の変化である。


●1990年代(見に来て当然)

わたし「公演します。よろしく」(とチラシを渡す)


●2000年代(感情に訴える)

わたし「お前ら、教えてもらっている先生が作った舞台を見に来なくて一体オレから何を学ぼうって言うんだ!」(と涙目)


●2010年代(おもねる)

わたし「チケット代は高いけど、面白いと思うので是非とも見に来てください」(と笑顔)


●2020年代(商談)

わたし「取引しよう。みんなで見に来てくれれば割引き料金で見れますよ」(と真剣に言う)


かつてはチラシを手渡すだけだった観劇への勧誘の仕方が、このように変化したわけである。すなわち、余計なことを多くを言わなくても見に来るのが当然だった時代から、学生たちの感情に訴える時代を経て、下手(したで)に回りへりくだる時代に至り、現在はあくまでもクールな商談の時代に突入したということである。このような観劇への勧誘の仕方の変化は、そのまま社会全体の変化と足並みを揃えているはずである。これは昔は当たり前だったことが時代とともに当たり前ではなくなったことを意味する。


昭和時代には当たり前だったことが今ではまったく当たり前でないことは多い。喫煙、セクハラ、パワハラ、飲酒、体罰など、かつて容認された価値観は現代においてはみな否定されたものばかりである。これらはみなそのようにならざるを得ない時代背景があり、一概に悪いことだとは思わないが、かつてを知っている身としては複雑な思いもある。


落語家の立川志らくさんが「松本人志さんは芸人。芸人はどれだけ常人には経験出来ない事を経験できるかが勝負。非常識に生きてこそ芸人」と発言して物議をかもしたという記事を読んだが、この感受性こそ最も昭和的なものの一つだと思う。そして、昭和生まれのわたしは心のどこかでこの意見を否定しきれない。翻って、演劇講師の学生への観劇の勧誘の仕方は2030年代にはおそらく次のようになるにちがいない。


わたし「もう誘わない。勝手にしてくれ」


*商談。(「FBleekdrive」より)