「友達が炎に包まれていった瞬間が忘れられない。毎日亡くなった仲間たちの顔が浮かび、人生を楽しんでよいのか、頭をよぎる」


先日も紹介したが、これは2019年に起こった京都アニメーション放火殺人事件の裁判において被害者の友人が行った陳述の際の言葉である。この陳述を行った被害者の友人が性別、年齢を含めどんな人なのかまったくわからないが、起こった悲惨な事態に対してこのような思考回路や感受性を持つ人間が世の中にはいる。余りに悲惨な出来事に遭遇し、親しい人が亡くなり、自分だけが生き残ると、人間は時にこのような気持ちになることがあるわけである。


わたしはかつて一度もそのような気持ちになったことがないのは、わたしが言語を絶する悲惨な目にあっていないからだと思うが、世の中にはそのように死んだ人間に義理立てして自らの幸福を犠牲にする人も存在する。肉親が亡くなるのは人間にとって最も辛い体験だと思うが、両親が老衰で亡くなってもそういう気持ちにはならない。それは自然死であり、当たり前のことだからである。人間がそのような気持ちになるのは、その人の死が極めて不自然で、何かしらの人為的な力によって唐突に絶たれた場合である。と同時にたくさんの人々が一度に命を奪われることがその特徴である。


山田太一作のテレビドラマ「男たちの旅路」に登場する警備員・吉岡(鶴田浩二)はそのような人物であった。吉岡は太平洋戦争末期に行われた特別攻撃の搭乗員の生き残りという設定で、若くして命を落とした特攻隊の友人たちに義理立てして、自らの幸福を捨てて慎ましく生きている。井上ひさし作の戯曲「父と暮せば」の主人公の美津江(映画版は宮沢りえ)もそのような人物であった。彼女は原爆で命を落とした父親やたくさんの人々に対して義理立てして、自らが幸福になることに強い抵抗があり、好きな男にも好きと言えない。


図らずも二つのフィクションの主人公は、ともに「その人の死が極めて不自然で、何かしらの人為的な力によって唐突に絶たれた」人であり、「一度にたくさんの人々が命を奪われる」事態に直面した人である。前者は特攻による体当たり攻撃で自死した友人を持つ人間であり、後者は原爆による殺戮の犠牲者を持つ人間である。件の京都アニメーション放火殺人事件で生き残った陳述者も、そらか比べれば規模こそ小さいものの人間の不自然死に直面した人であることに変わりはない。


残された人々をそのような気持ちにさせる出来事は、おそらくこの世で起こり得る最悪の出来事である。おそらく戦争やテロ、大地震で親しい人を亡くした人の中にもそういう人はたくさんいるにちがいない。人間の心の複雑さ。


*「男たちの旅路」の一場面。(「NHKアーカイブス」より)