《山田さんは50年以上も脚本を書き、数多くの作品を残したが、一貫していたことがある。「私のドラマでは殺人事件は起きません」(山田さん)。刑事ドラマもミステリーも手掛けたことが一度もない。はっきりとした自分のテーマを持ち続けていたからだ。それは「人間の実像」を描くことだった》(「デイリー新潮」より)


亡くなった脚本家の山田太一さんを追悼する記事を読んでいたらこんな文章を目にした。その通り。山田ドラマに殺人事件を描いたものは皆無と言っていい。山田ドラマには殺人とかミステリとか刑事とか探偵とか謎解きとかそんな大袈裟なものはまったく出てこないのである。いや、必要なかったと言った方がいいのかもしれない。


そんな事実を知ると、近年、実際に起きた殺人事件を題材にミステリー・タッチの芝居ばかりやっているわたしは「すいませんでした!」と山田さんに謝りたい気持ちになる。と言うのも、殺人事件を題材にしたり、それにまつわる謎をミステリとして描くことは比較的、簡単なことだからである。何か派手なことを起こさないとドラマを展開できないヤツに限ってそういう題材を扱うことが多いように思う。氏のように大したことは何も起こらないのにドラマを作ることは相当な作家としての腕が必要である。


もちろん、氏の主戦場は映画や演劇ではなくテレビドラマだったという条件を前提にした話だが、山田さんは、本来、脚本家たちが嬉々として安易に手を出しそうな劇的な小道具をすべて封印してドラマを書いたのである。同時にそれはテレビドラマという形式(日常の延長で自宅で視聴する)を最も生かす方法でもあった。そこで起こるのは、日常に根差した小さな、しかし、切実な人間の悩みと葛藤のドラマである。そこでは派手な装いではなく人間の内面を描く作者の筆の深度が求められる。


「ある男が、なぜ殺人を犯すかというより、なぜ結婚するかということのほうに、はるかに刺激的なドラマがある」とは氏が強く影響を受けたと思われるアメリカの脚本家パディ・チャイエフスキーの言葉である。山田ドラマはまさにそのようなドラマであった。


*同氏。(「読売新聞」より)