わたしはずっと作・演出家を名乗って演劇活動をしている人間だが、ある日、戯曲を書く作家とそれを立体化する演出家の役割について考えた。


戯曲を書くということは、精神的な作業である。もちろん作家も肉体を持つ存在だが、台詞やト書きを書く時、使うのは肉体ではななく精神であり、心であり、頭脳である。身体の部位で言えば腰から上の上半身で行う作業と言える。それに対して演出するという作業は、肉体的な作業であると思う。足しげく稽古場に通い、演出家の表現力を使ってどういう場面を作るのかを俳優たちに伝えなければならない。もちろん演出家も頭を使うが、その頭の使い方は作家とはずいぶんと違うように思う。


作家が書いた台詞は、あくまでも言葉であり、抽象的な記号である。華麗なレトリックを駆使したどんなに美しい言葉も、つまるところそれは文字の配列に過ぎない。俳優がその言葉に肉体を伴わせる作業を手伝うのが演出である。違う言葉を使えば、俳優が言葉を身体化する際の手助けが演出である。


言葉を身体化するとはどういうことかと言うと、例えば、その台詞を額の汗を拭いながら言うとか、腹痛に悩まされながら言うとか、周りに蚊が飛んでいる状態で言うとか、走ってきて息切れしている状態で言うとか、熱い茶を飲みながら言うとか、そういう現実感を伴わせて場面を成立させる方法を提案し、俳優に演じてもらうのである。そういう意味では、演出とは言葉をよりリアルに具体的に成立させるために、その状況における俳優の身体の在り方を模索する作業である。これは非常に下半身的な作業である。


その意味において、作家は人間の精神を司る仕事であり、演出家は人間の肉体を司る仕事であると言えるかもしれない。さらに話を飛躍させれば、作家は人間の聖なる部分を司る仕事であるのに対して、演出家は人間の俗なる部分を司る仕事であるように思う。ゆえに作・演出を名乗るわたしは、戯曲を書くという作業を通して頭を使って聖なる世界を描き、演出をするという作業を通して俳優の肉体を使ってそれを俗なる世界で成立させる努力をしているのだと思う。


その二つが足を引っ張り合うのではなく、見事に融合した時、作品は聖と俗を内包したわたしたちが住む世界に拮抗できるすぐれたものになると思う。


*稽古風景。


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