演劇の専門学校で若者と一緒に「八月のシャハラザード」を読み合わせすることがある。わたしが書いた戯曲の中では「バンク・バン・レッスン」の次に人気がある戯曲である。登場人物は以下の通り。


[登場人物]

●天宮亮太(幽霊)

●川本五郎(強奪犯人)

●夕凪(案内人)

●ひとみ(亮太の恋人)

●武志(亮太の後輩)

●木島さん(劇団主宰者)

●あらた(新人劇団員)

●梶谷(川本の共犯者)

●マキ(その情婦)


読み合わせをする際に若者から「恋人と情婦はどう違うんですか?」と質問されたことは今まで一度もない。しかし、そのように質問されたら、わたしはたぶん次のように答えるにちがいない。


――「恋人というのは、対等な男女関係を意味しているが、情婦の方は恋人より性的な関係に重心がかかっている場合に使う」


だから、上記の亮太とひとみの関係と、梶谷とマキの関係は違うものだということを断りたくて、登場人物欄にそのような表記をしたわけである。しかし、今時の若者にとって「情婦」などという言葉は死語にちがいないと思う。「情婦」と書いて「いろ」と読ませるのが普通だと思うが、この言葉は江戸時代に生まれた言葉のはずである。日本人の男女の恋愛関係にまだ「プラトニック・ラブ」という観念が輸入される前の言葉。


話は変わるが、アガサ・クリスティの書いた舞台劇「検察側の証人」をビリー・ワイルダー監督が映画化した際、邦題としてつけられたタイトルは余り評判がよくない。「情婦」というタイトルである。「The Apartment」を「アパートの鍵貸します」、「Some Like It Hot」を「お熱いのがお好き」と訳した人のセンスと比べると、こちらは「?」とならざるを得ない。邦題をつけた人は、裁判で証言する妻には夫以外に愛人がいることが明らかになる点を指してそのようなタイトルにしたのだと思うが、意訳が過ぎて本質を掴みそこなっているように感じる。


ところで、情婦という言葉は令和の現在もまだ使われることがあるのだろうか? たぶん愛人という言葉が情婦という言葉を駆逐して一般化したと言っていいのではないか?


*「情婦」のパンフレット。(「日本の古本屋」より)