先日、秋葉原通り魔事件の犯人である加藤智大死刑囚の死刑が執行された。「死刑は国家による殺人である!」「文明国で死刑制度を維持しているのは日本とアメリカだけだ!」「どんな理由があれども、人間が人間を殺すことは許されない!」という意見もある一方、日本は死刑制度を存置する国である。そして、改めて、この事件で犠牲になった人々に思いを馳せた。


●大学生Kさん(20)

●無職Kさん(47)

●無職Nさん(74)

●大学生F さん(19)

●調理師Mさん(33)

●会社員Mさん(29)

●女子大生Mさん(21)


男性6人、女性1人の合計7人である。二十代以下の人が4人もいる。(この他にも怪我をした人が10人いる)2008年6月8日、昼下がりの秋葉原の歩行者天国を彼らはそれぞれの目的で歩いていに過ぎない。彼らはそこにトラックが暴走してきて体当たりされ、車から下りてきた男にダガーナイフで襲われるとは夢にも思わなかったにちがいない。そして、彼らは必ずしも特筆すべき人たちではなかったかもしれないが、小さな夢を持って生きている善良な小市民であったはずだ。そんな彼らの命が理不尽極まる方法で奪われた。犯人の言い分はこうである。


――「世の中が嫌になった。誰でもよかった」


わたしが被害者の家族や友人なら、怒髪天を突き、「ふざけんな!」と犯人に殴り飛ばしたくなると思う。そして、犯人がそんな身勝手な理由で7人もの人たちの未来を奪ったのだとするなら、極刑は当然と考える。逆にもしも司法が何らかの理由で犯人を逃すなら、遺された人が自らの手で犯人を殺害するか、それが無理なら殺し屋を雇って犯人を殺害することも企てることも、あながち荒唐無稽とは言えないと思う。どう考えても許せるわけがないのである。


こういう局面に直面する度に、わたしは自分の中の刑罰への認識を再確認することになるが、罪刑均衡の法則から考えても、犯人は自らの命を差し出すしか、その罪を償うことはできないと思う。7人の命に対して犯人の命は一つだから、犯行と刑罰のバランスは釣り合わないけれど、やはりそれしかない。死刑制度を撤廃した国の人々は、どのような考えによって、身勝手極まる犯人への処罰感情を抑え込めたのか、是非教えてほしいと思う。


*天秤。(「illust images」より)