ある日、久しぶりに友人らと一杯飲みながら四方山話をした折に、最近めっきりと不良少年がいなくなったという話になった。確かに不良らしい不良を街で見かけることはなくなった。わたしが青春時代を送った昭和時代には、身のまわりにわかりやすい不良が存在していたと思う。着ている衣服であったり、髪型であったり、そういうビジュアルに「俺は不良だぜ!」という気持ちがきちんと表現されていた。ところが、今時の若者はみな一様に小綺麗で、そういう不良らしい不良はほとんど絶滅状態であると言っていい。


演劇の専門学校で拙作「八月のシャハラザード」を読み合わせすることがあるが、その折にいつも困るのは、「川本五郎」役をやらせたい学生がいないことである。「川本五郎」は、この芝居に登場する「現金輸送車襲撃犯人」で、演出家としては目付きの鋭い暴力的な気配を持つ役者がほしいのだが、そういう学生は一人もいないのである。いるのは、みな優しい目付きの好青年ばかりである。上記の文脈で言うなら、不良少年がいないのである。クラスにたまたまそういう学生がいなかったというわけではなく、世の中全体を見渡してもそういう若者がいないという事実の結果だと思う。


不良少年がいないことを嘆く必要もないのだが、現代の漫画家は「あしたのジョー」を作れないことを嘆く必要はあるかもしれない。「あしたのジョー」(ちばてつや作)の主人公の矢吹丈は、紛れもなく不良少年である。粗暴で喧嘩早い馬鹿野郎である。そんな彼が丹下段平というトレーナーに出会い、ボクシングという形式の中で、自らの暴力衝動を昇華させ、才能を開花させていくのが「あしたのジョー」である。ここには他人をナイフで傷つけるのが好きな少年が外科医になって人々の命を助けるような感動がある。


翻って、不良少年がいない世界は果たして豊かな社会か? あるいは、その存在を容認できない社会は成熟した社会か? 即答できるようなことではないが、少なくともドラマ作家にとってはドラマを作りにくい世界であることは確かなことであるように思う。


*「あしたのジョー」。(「dアニメストア」より)