共有について考えた。共有とは「あるものを自分以外の誰かとともに分かち合うこと」であると考えるが、シェアという言葉と同じ意味だと考えてもよいだろうか。わかりやすいのは、一つの料理が目の前に出された時、それを一人で食べるのではなく、そこにいる人々で共有=シェアして食べることである。シェアという言葉は、ほぼ日常化して誰もが使う。


しかし、必ずしも料理のような物理的なモノでなくても共有できるものは存在する。その最たるものは時間である。思うに、モノではなく時間を共有することこそが豊かな人生とそうでない人生を決める分岐点なのではなかろうか。時間を共有するとは、自分以外の人と同じ時間をともに過ごすということである。それは、小は結婚生活や趣味の集まりであり、中は演劇や音楽や映画やスポーツ競技などのイベントであり、大は戦争やオリンピックのような国家的なイベントであろうか。その日、その場所で自分以外の誰かと共有するもの。


若い頃ならいざ知らず、大人になると他人との付き合い方もずいぶんと変わるものだと実感する。若い頃は、家庭よりも何かに一緒に取り組む仲間(わたしの場合、それは劇団だった)との時間がわたしの人生の大半を占めたが、今は連れ合いと過ごす時間がほとんどである。子供がいたらそのために使う時間はかなりの比重を占めるにちがいない。それはそれで一人の人間の人生の帰結点として普通のことであるように思うが、もしもわたしが未だに独り身で生きている身の上であるとしたら、ずいぶんと寂しいことのように思う。もちろん、独身者には独身者のよさや快適さがあるにちがいないが、やはり豊かな人生とは、一人で料理を食べることではなく、誰かとともに食事することであるとわたしは思う。


豊かな人生を送りたいという願望を敵えるためにわたしは演劇という手段を選んだが、わたしが他の分野を差し置いて、演劇に強く惹かれる大きな理由は、自分以外の誰かと同じ時間を共有する点であると思う。


*シェア。(「smlable.jp」より)