何らかの刑事裁判が行われ、判決公判において裁判官が被告人の証言を退けて、厳しい判決を下す際に述べる言葉は以下のようなものが多い。 


裁判官「被告人の供述は不自然、不合理で、到底信用できない。反省や謝罪の言葉を述べてはいるが、他の人間に責任を転嫁し、自らの罪に向き合っているとは言えず、反省の気持ちは感じられない」


このように言われてしまうと、被告人は無罪はおろか相当の刑罰を覚悟しなければならない。逆に裁判官が被告人の証言を認め、恩情ある判決を下す場合は以下のようなものになる。


裁判官「被告人の供述は自然、合理的であり、十分に信頼できる。反省や謝罪の言葉も衷心より発せられたと信じるに足る説得力があり、自らの罪に真摯に向かい合い、素直に刑罰を受ける気持ちが伝わってくる」


このように評価してもらえるなら、被告人はうまくすれば執行猶予付きの判決か、実刑を言い渡されても検察官が求刑した刑罰よりも軽くなる可能性がある。ところで、裁判官が言うところの「自らの罪と向き合う」とは、どういう状態なのだろうか? これはたぶん「いろんな悪条件が重なったにせよ、一番悪かったのはわたしです」という心境を指すにちがいない。対して「罪と向き合わない」状態とは、「結果はああいうことになったけど、悪いのは俺のせいじゃない!」という心境から脱していない状態ということだと思う。反省や謝罪は自らの罪を認めた上でしないとする意味がない。


モンゴメリー・クリフト主演の「陽のあたる場所」(1951年)の主人公はまさにそのように描かれた殺人犯だった。彼は恋人と一緒に湖でボートに乗り、彼女をボートから転落させて溺死させた罪に問われる。彼は最初はそれを否認するが、最終的に自らの心の中にあった殺意を発見し、「罪と向き合う」のである。口で言うのは簡単であるが、それがどんな罪であれ、人間は自らの「罪と向き合う」ことほとんど本能的に回避しようとする。それは向き合う相手が己の心の真実だからである。真実は大概において醜い姿をしている。


*被告人。(「illust AC」より)