メディアを通して菅義偉(すがよしひで)首相の姿を目にすることが多い。言うまでもなく、現在、日本はコロナ禍という未曾有の災難に見舞われていて、その蔓延防止とその最中に開催される東京オリンピックをめぐる様々な感染対策を国民に伝えていかなければならないからである。こういう事態でなければ、首相のメディア登場率はもっと少なかったにちがいない。記者会見の回数も、ちょっとした戦争状態の時と同じくらい多いのではないか。コロナ対策にせよ、東京オリンピック開催問題にせよ、何かと非難が集まる菅政権ではあるが、語りたいのは菅首相の政治的手腕についてではない。


首相とは言え人の子である。長所もあれば欠点もあろう。それをとやかくあげつらうつもりはまったくない。しかし、テレビに映る菅首相を見ていていつも不満に思うのは、その感情表現の乏しさである。この人はいつも無表情で、感情をほとんど表に出さない。その無表情は時に仏頂面にも見える。また、質問者へ向ける目に力がない。つまり、菅首相を一人の俳優として見ると、表現力に乏しいのである。もちろん、政治家は表現力に乏しくても、結果を出してくれれば文句を言う筋合いはない。しかし、それでも人前に出る仕事であることに変わりはないのだから、もっと豊かな感情表現をしてもいいのではないか。


いや、ないものねだりはしない。(かく言うわたしも首相同様、感情表現に乏しい人間である)しかし、少しでもよいから笑顔を見せてほしいとわたしは望む。歴代の日本国首相を概観しても、どの首相はもう少し愛嬌があったのではないか。いや、政治家に必要なのは手腕であって愛嬌ではない。しかし、それでも笑顔は絶対必要なのではないか。笑顔は、余裕であり、ユーモアである。余裕もなくユーモアもないヤツにわたしは国の命運を預けたくないと思う。


その点、やはりアメリカ大統領には見習うものがあると思う。歴代のアメリカ大統領は、誰もが笑顔を持っていて、わたしは彼らの笑顔をすぐにイメージできる。もしも、内閣官房が助力を必要とし、わたしに首相の感情解放に関する指導を打診してくれるなら、力を貸すことはやぶさかではない。


*菅首相。(「ESSE ONLINE」より)