かつて出版した「ステージ・ストラック~舞台劇の映画館」(論創社)という本の中でも触れていることだが、シェイクスピアが芝居を作っていた時代に照明機材は存在しなかった。芝居はもっぱら昼日中に上演されていたのである。確かに電力がない以上、照明機材は開発されず、明かりがない暗い夜に芝居を上演することは出演者にとって危険極まりない行為である。つまり、その時代、「暗転」(舞台を暗くする)による舞台転換が成立しなかったということである。シェイクスピアの戯曲に「暗転」とか「と暗くなる」というト書きがないのはそのせいである。


照明機材が当たり前に存在する現代において、そんな昔の芝居の上演の形態を知った時、わたしは意表を突かれて驚いた。しかし、そのように考えるとシェイクスピア戯曲がなぜあのように書かれているのかが腑に落ちる。シェイクスピアの戯曲は、そういう上演に際しての物理的な条件が反映しているのである。暗転なしで場面を変えるにはどうしたらよいか? その結果が、「ハムレット登場」「ハムレット退場」という素っ気ないト書きになったわけである。


では、場面が変わり、その場所や時間をどのように観客に伝えたか? プロジェクション・マッピングの手法なら、その場面の背景を視覚的に提示して、場所を簡単に説明することができる。しかし、そんな便利なものはない。では、どうしたか? 登場人物が発する台詞(会話と独白)の中に場所や時間や季節を暗示する言葉をちりばめたのである。その言葉によって、観客はその場面がどのような状況であるのかを想像力を使ってイメージするわけである。その台詞量は膨大だが流麗である。もしもシェイクスピアの時代にプロジェクション・マッピングの技術が存在すれば、シェイクスピアが書く戯曲は決してあのようにはなっていない。つまり、「制約は創造の母である」ということである。


シェイクスピアの時代と違い、舞台造形の技術が進化するのは当たり前のことであり、それは歓迎すべきことである。しかし、わたしは、ここに演劇の原点があると思っている。最小限の力で最大限を想像させるのが演劇である、と。


*シェイクスピアの時代の劇場。(「新国立劇場」より)