演出家の鴨下信一さんの訃報が届いた。85歳だという。わたしは映画監督の名前を覚えることはあっても、テレビ局のディレクターの名前を覚えることはほとんどない。なぜなのか深く考えたことはないが、昔からテレビ・ドラマの演出家は大概においてクローズアップされない傾向がある。失礼を省みず言えば、彼らは演出家である前にサラリーマンであるという事実が、表現者としての質をちょっと薄味にしてしまうからかもしれない。そんなテレビ局のディレクターの中で、氏はわたしにとって例外の人だった。

テレビ・ドラマ「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」など、かつてわたしたちの世代が熱狂した山田太一ドラマを手掛けた演出家であったことが一番の要因だが、たくさん著作があり、「テレビ・ドラマのディレクターは何を考えているのか?」という興味から氏の本を読んだ。そして、その博識ぶりに舌を巻き、「演出家はこういう風にいろんなことを知らないといけないんだなあ」とため息をついた。(特に日本語に対する造詣が深かった)「岸辺のアルバム」において一家の長男役を演じた国広富之に「家族の住む家のセットの階段を何度も何度も上り下りさせて、目をつぶってもかけ下りることができるようにした」という演出のエピソードが最も印象深い。そのようにして「住み慣れた我が家」の生活のリアリティを出そうとしたのである。若いわたしはそれを知り、「演出家かくあるべし」と思ったものである。

氏は、かつて「TBSドラマの顔」と言っていい数少ない「スター・ディレクター」の一人だったと思うが、訃報によれば「93年に制作局長、取締役制作局長、95年に常務取締役、2001年に上席執行役員、03年に社長室顧問に就任した」とある。つまり、氏はテレビ局という会社組織で出世した社員でもあったわけである。会社の重役でありながらテレビ・ドラマの演出を続けることは難しいであろうことはわたしにも想像できるが、氏がすぐれた演出家だったことに変わりはない。お目にかかったことは一度もないが、わたしの心に痕跡を残した先人の一人であり、ここに謹んで哀悼の意を表する。


*同氏。(「Y!ニュース」より)